いまごろになって例の「勝間×ひろゆき対談」を持ち出すのもアレですが、、、僕の場合、株(とオンナ)はソッコーで攻めるけど、それ以外のもの(=つまり人生で大切でないものすべて)はあとまわしなのでございます。

さて、件の対談ですが、世間的にはあの対談はひろゆきサンの圧勝で、勝間サンの負けということになっています。

確かに僕もそういう印象を受けました。

昔、ウチのガキどもが熱中していたスーパーマリオかなんかのゲームで、しくじるとコインがジャラジャラと音を立ててこぼれおちてしまうゲームがありましたが、僕はこの対談で勝間サンが喋るたびにウッフィーがジャラジャラと音を立ててこぼれおちる様子をイメージしてしまいました。

折角、こつこつ貯めてきた勝間サンのウッフィー、、、それがわれわれの眼前でどんどん失われてゆくわけですから、これはもう呆気に取られたというか、ハラハラして見ていられないというか、、、兎に角、ネットの恐ろしさを改めて見せつけられ、オジサンとしては慄然とした次第です。

それではなぜ普段はネット・サヴィーな勝間さんがウッフィーのドカ下げを演じたかという事ですが、これはタラ・ハントが『ツイッターノミクス』の中で論じているウッフィー・リッチになるための5つの掟の第一番目を完全に無視したからに他ならないと思うんです。

第一条 大声でわめくのはやめ、まずは聞く事からはじめる


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しかしそれでは僕がひろゆきサンの受け答えに感心したか?といえば、それも(うーん、これって、どうなのよ?)と正直言って感じたのです。

もっと正確に言えば、ひろゆきサンの価値観に古色蒼然たる時代遅れさを感じざるを得なかったということなんです。

断っておきますが、僕は2チャンネルの存在意義は認めているし、その「ワイルドサイドを歩け!」的なゴツゴツ感には捨て難い魅力を感じます。

しかし、、、

2ちゃんねるの問題点はタラ・ハントが解説しているようなネットの新しい潮流、つまりネット上でのgoodwillの積み上げ行為としてのウッフィー、、、この価値観とはぜんぜん違うベクトルだということなのです。

「別にいいじゃん、良い子にならなくったって!」

そういう議論があることは僕も承知しています。

でもソーシャル・キャピタルとしてのウッフィーは確かに存在するし、いまこの捉えどころの無い、インタンジブルな価値はもの凄い勢いで膨張し、新しい社会階級すら形成しようとしているのです。

その社会階級とは「ウッフィー・リッチ」と「ウッフィー・プア」です。

掲示板というものの性格上、どんなに特定のスレで読者から一目置かれ、尊敬され、畏れられる存在になったとしても、その隠然たる影響力というか存在感はいかんせんportable(他のところへ持ち運びできること)ではないのです。

ウッフィーがカレンシー(通貨)である以上、自分がそれを使いたい局面で、使いたい対象に投入できなければ意味が無いのです。

結局、2ちゃんねるにはアダルトの広告くらいしかつかないのは、2ちゃんねるというコミュニケーション・プロトコルそのものがgoodwillを積み上げる場としては極めて不適当だからではないでしょうか?

まともな企業が2ちゃんねるを相手にしないのは、だからそこへ集う「人」の問題ではなく、「場」の内包する欠陥が原因なのです。

勝間サンは実名、匿名の議論を持ち出すことで、そのへんのところを争点にディスカッションしようと試みていたのがわかりましたけど、ひろゆきサンはのらりくらりの生返事で、見ようによっては「逃げを打っていた」と言う事もできると思います。

これは2ちゃんねるのもともとのファンのひとりとして寂しいし、2ちゃんねるという存在が既に時代に取り残されてirrelevantになってしまったことを痛感する思いでした。

つまりひろゆきサンは戦(いくさ)には勝ったけど大戦にははじめから負けている(Winning a Battle, Losing the war.)ということ。