よく「日本ではネットのユーザーは実名を使いたがらない」という議論がなされます。これはまちがいなく日本のユーザーの特性であり、今後も長く変わらないと思います。
しかしその一方でソーシャル・メディアにおいて実名を使い始める人は着実に増えると思います。
さらに言えば実名を使う人は匿名の人よりソーシャル・メディアから享受するメリットが大きくなると思うのです。
しかしその一方でソーシャル・メディアにおいて実名を使い始める人は着実に増えると思います。
さらに言えば実名を使う人は匿名の人よりソーシャル・メディアから享受するメリットが大きくなると思うのです。
もちろん、今は未だソーシャル・メディアから得られるメリットとリアルの社会で「和を乱さないように大人しくしている」ことのメリットを比べると後者の方が大きいです。
しかし両者のメリットの差は自分の所属する企業や組織の地盤沈下とともにだんだん失われてゆくと思われます。
別の言い方をすれば時代はゆっくりと、しかし着実に「個の時代」へと移ってゆくということです。
なぜそうなるかといえば今までのような「就社する」という終身雇用の価値観が経済構造や雇用構造の変質に伴って維持不可能になりつつあるからです。
「社畜」を装うことのメリットやそれが提供するセキュリティ(安心感)が脅かされているということです。
これは何も日本だけに固有の事ではなく、アメリカの社会でも起こったことです。
たとえばIBMに勤めるということはエリートであるということの証であり、彼らは「IBMマン」と形容されました。典型的なIBMマンはパリッとしたスーツを着こなし、堅いイメージだったのです。
しかしITの世界が激変するとともにIBMマンの職も脅威に晒されるようになりました。すると「IBM的であること」や「IBM独特のしきたり」に対する畏怖の念はだんだん薄まり、「若しIBMをレイオフされても、どこでも通用する人間になりたい」というサバイバルのニーズが高まったのです。
つまり匿名を選ぶのも、実名を選ぶのもサバイバルという観点からそちらの方のメリットが高いからそうしているのであって、今の日本では組織に身を寄せ合って集団としてサバイバルする方が安全だと皆が考えるから個を前面に押し出さず、匿名主義がメインになっているだけです。
さて、Facebookはもともとハーバード大学の学生寮ではじめられました。
「卒業アルバム」みたいなオンラインの名簿があれば、次の学期で自分がどのコースを選ぶか?という事を考える際、「かわいいあの娘が履修するのと同じコースに潜り込みたい」というような動機から爆発的に普及したとされています。
つまりFacebookはそのサービスが発想された当初から同窓というひとつの社会の「括り」を前提としていたし、実名入り、写真入りでなければ意味が無かったのです。
だから匿名主義、実名主義云々という哲学的な議論はすべて後付けです。
ついでに言えば社会のヒエラルキーの頂点からはじめることのメリットということは余り議論にのぼりませんけど、これでFacebookが絶大なアドバンテージを享受したことは明白です。
つまり「ハーバードの学生とデートしたい」というノリです。
だからFacebookは先ずハーバード大学内で普及し、それが他のアイビー・リーグのキャンパスに拡張され、さらに一般へと広がってゆくという、「上から下へ」の伝播を見せたのです。
なぜ皆がFacebookを始めたかといえば、そういうアスピレーショナル(上昇志向)な、デザイアラブル(モテる)な動機が見えないチカラとして働いていたからに他なりません。
ミクシィがFacebookとのバトルをこれから戦うにあたり、気をつけなければいけない点はFacebookというコミュニティはとりわけこの選民的なちからが働いているコミュニティであるという点です。
Myspaceはこの部分を甘く見たので寝首をかかれたわけです。
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しかし両者のメリットの差は自分の所属する企業や組織の地盤沈下とともにだんだん失われてゆくと思われます。
別の言い方をすれば時代はゆっくりと、しかし着実に「個の時代」へと移ってゆくということです。
なぜそうなるかといえば今までのような「就社する」という終身雇用の価値観が経済構造や雇用構造の変質に伴って維持不可能になりつつあるからです。
「社畜」を装うことのメリットやそれが提供するセキュリティ(安心感)が脅かされているということです。
これは何も日本だけに固有の事ではなく、アメリカの社会でも起こったことです。
たとえばIBMに勤めるということはエリートであるということの証であり、彼らは「IBMマン」と形容されました。典型的なIBMマンはパリッとしたスーツを着こなし、堅いイメージだったのです。
しかしITの世界が激変するとともにIBMマンの職も脅威に晒されるようになりました。すると「IBM的であること」や「IBM独特のしきたり」に対する畏怖の念はだんだん薄まり、「若しIBMをレイオフされても、どこでも通用する人間になりたい」というサバイバルのニーズが高まったのです。
つまり匿名を選ぶのも、実名を選ぶのもサバイバルという観点からそちらの方のメリットが高いからそうしているのであって、今の日本では組織に身を寄せ合って集団としてサバイバルする方が安全だと皆が考えるから個を前面に押し出さず、匿名主義がメインになっているだけです。
さて、Facebookはもともとハーバード大学の学生寮ではじめられました。
「卒業アルバム」みたいなオンラインの名簿があれば、次の学期で自分がどのコースを選ぶか?という事を考える際、「かわいいあの娘が履修するのと同じコースに潜り込みたい」というような動機から爆発的に普及したとされています。
つまりFacebookはそのサービスが発想された当初から同窓というひとつの社会の「括り」を前提としていたし、実名入り、写真入りでなければ意味が無かったのです。
だから匿名主義、実名主義云々という哲学的な議論はすべて後付けです。
ついでに言えば社会のヒエラルキーの頂点からはじめることのメリットということは余り議論にのぼりませんけど、これでFacebookが絶大なアドバンテージを享受したことは明白です。
つまり「ハーバードの学生とデートしたい」というノリです。
だからFacebookは先ずハーバード大学内で普及し、それが他のアイビー・リーグのキャンパスに拡張され、さらに一般へと広がってゆくという、「上から下へ」の伝播を見せたのです。
なぜ皆がFacebookを始めたかといえば、そういうアスピレーショナル(上昇志向)な、デザイアラブル(モテる)な動機が見えないチカラとして働いていたからに他なりません。
ミクシィがFacebookとのバトルをこれから戦うにあたり、気をつけなければいけない点はFacebookというコミュニティはとりわけこの選民的なちからが働いているコミュニティであるという点です。
Myspaceはこの部分を甘く見たので寝首をかかれたわけです。
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