テムズ川を遡航する船のデッキからスラム街やドックで働く労働者の姿を眺めているうちに船着き場に着いた。

私は英語を解さなかったが、それは別に気にもならなかった。暫く住めば自ずと上達するだろうと思っていたからだ。

船着き場は異様な興奮に満ちていた。後で知った事だが、どうやらネルソン提督の英海軍がエジプトで仏艦隊を壊滅させたのだそうだ。

その年の春にナポレオンはアレキサンドリアに上陸し、すぐにアレキサンドリアの町を制圧し、その勢いでカイロを目指した。

五つの方陣を作ったナポレオンの軍隊はエジプトの騎馬兵に猛烈な砲火を浴びせ、あっと言う間に勝負がついてしまった。

しかしナポレオンの弱点は軍隊を運んできた艦隊をアレキサンドリアに残してきた点だ。

ネルソン提督の攻撃で仏艦隊は全滅し、ナポレオン軍は帰るに帰れなくなってしまった。

私はイギリスの海軍力の強さを悟った。

数カ月ロンドンに滞在した後、私は北のマンチェスターを目指した。父から託されたお金で布地を買い付けることが目的だからだ。

フランクフルトを出て以来、マンチェスターに近くなるほど布地の値段は安くなった。実際、マンチェスターについてみるとその値段の安さに驚いた。

私は紡績工場、染色工場、機織り工場などを回って製品が出来るまでの過程を勉強した。

色々な模様の布地のサンプルを台帳に張り付け、カタログとしてフランクフルトの父のところにも送った。

私の商売の秘訣はその場で現金で布地を買い上げるということだ。

普通、マンチェスターの工場経営者は製品を出荷しても支払いは三カ月ほど待たされる。だからその場で現金を払う私のやり方は歓迎された。

このため通り相場より15%くらい買い叩いても殆どの工場経営者は私と商売することを選んだ。

そうやって仕入れた製品を私はフランクフルトに送った。父は私と示し合わせて誰よりも安く布地を販売した。このため利幅は薄かったがそれを数量で補った。


普通、フランクフルトの顧客は商品を買い上げてからその代金を支払うまでに三カ月の猶予を要求した。するとマンチェスターからの輸送にかかった時間を入れて買い付けから通算五ヶ月の資金繰りをロスチャイルド商会が負担したことになる。莫大な運転資本を調達するためにロンドンの銀行から特別の借り越し枠を設定してもらった。

マンチェスターの工場主の間では「ロスチャイルドはいつも必ず製品を買ってくれるし、支払いも即金だ」という評判が定着した。

こうしてフランクフルトを出る時2万ポンドだった資本金はほどなく6万ポンドに膨れ上がった。

しかし順調であるかのように思えたロスチャイルド商会のビジネスに思わぬ転機が来た。それは1805年のトラファルガーの海戦で英海軍と仏艦隊が再び決戦を交えフランス海軍が敗れた事だった。勝った英海軍もネルソン提督を失った。

この戦争でフランスは英国からの物品に禁輸措置を取った。つまり私の布地が通常のルートで輸出できなくなってしまったのだ。

私はアメリカ船を傭船してアムステルダム経由で布地を搬出する方法を考え出した。さらにバルト海から陸路でフランクフルトを目指すルートも試した。

私はロンドンで成功しているユダヤ人、リーバイ・ベアレント・コーエンの娘、ハナ・コーエンと1806年に結婚した。

大陸ではこの年、神聖ローマ帝国が崩壊し、フランクフルトの情勢は一層流動的になった。

私は布地の仲買で蓄積した富を元手に今後は金融業に専念することにした。

1811年にロンドンのセイント・スウィッシンズ・レーン、ニューコート二番地に事務所を開設し、NMロスチャイルド商会と社名を改名した。