私がニューコートにNMロスチャイルド商会のオフィスを持った1811年当時、ロンドン最大のマーチャント・バンクはベアリング商会だった。このときのベアリング商会の資本金は36万ポンドである。一方のロスチャイルドはフランクフルトやロンドンに分散した資本金を合計してもベアリングより数万ポンド劣っていた。

ベアリング商会はアメリカ合衆国が独立を宣言した1776年に英国南西部のエクセターからロンドンに出てきたフランシス・ベアリングによって設立された。フランシスは早くからアメリカの成長可能性に注目し、1803年にアメリカがフランスからルイジアナを買収した際にはこの取引を仲介している。当時のベアリング商会の利益の8割は米国関連の業務から上がっていた。

ビショップスゲート八番地のベアリング商会のオフィスとセイント・スウィッシンズ・レーンのNMロスチャイルドのオフィスは徒歩で数分の距離である。

当然、両社の間には激しいライバル心が芽生えた。

私は政府に対する貸付のビジネスをNMロスチャイルド商会のコア・ビジネスにしたいと考えた。

その理由はナポレオンが欧州大陸の政治に登場して以来、戦争に次ぐ戦争に明け暮れており、通常の交易の商売がだんだんやりにくくなったことにある。

加えて各国の政府は戦費の調達に苦労しており、高い金利を払うことを厭わない政府が多かった点も見逃せない。このため余資の運用先として国家に対する貸付ほど魅力ある投資対象は無かったのである。

問題はこれらの国々の経済が疲弊し、借金の返済能力が低下しつつあった点である。

また戦勝国は侵略した国から略奪することで借金を返す心算なのでどちらの国が勝つかを占うのはお金を貸す相手が信用に足る国かどうかの判断と同じか、それ以上に重要な要素になってきた。

貸付先としての英国政府は悪くない相手だった。


その理由は英国の徴税基礎が比較的しっかりしていたこと、議会での国家財政の策定過程は透明で秩序あるものだったこと、借金をちゃんと返せるだけの産業基盤が確立していたこと、イングランド銀行が金兌換制を敷いていた事などによる。

しかしウエリントン公爵が英軍の総司令官を務めた時代には度重なる戦のために英国の負債は1793年に2.4億ポンドだったものが1815年までには9億ポンドにまで膨れ上がった。

また1797年にイギリスは金本位制度を止めたのでポンドの下落が始まった。紙幣の増刷はインフレを巻き起こした。

私がロンドンの閉鎖的な金融界に直ぐに喰い込めた理由は二つある。

先ず当時のベアリング商会はちょうど世代交代の時期に差し掛かっており、フランシス・ベアリングから息子のアレキサンダー・ベアリングに事業が引き継がれたばかりだった。加えてベアリング商会の番頭として采配を振るったチャールズ・ウォールが1809年に他界した事により人材面でベアリング商会は手薄になっていた。

二番目の理由として英国政府の莫大な戦費調達の必要は「有利なレートで引受けてくれるのなら、相手がユダヤ人でも構わない」というプラグマチックな態度を英国政府に植え付けた点である。

前線に軍資金を送金するには主に次の二つの方法があった。

ひとつは金塊を輸送し、現地でその土地の通貨に交換する方法であり、二番目の方法は現地の銀行からお金を借り、その代わりに彼らに対してロンドンで手形を発行するというやり方である。この方法の問題点は余りに手形が乱発されたためにロンドンの取引所ではそれらが大幅なディスカウントで取引されていた点である。これがイギリス政府にとって資金調達コストの増加につながったことは言うまでも無い。

ロスチャイルド商会は既に欧州のあらゆる処へ金塊や証書を安全に送り届ける飛脚網を構築してあったので金塊輸送の実務を請け負うことは簡単だった。

私がNMロスチャイルド商会を旗揚げした頃、東インド会社が80万ポンド相当の金塊を市場に売りに出した。私は借金までしてその金塊の大半を買い占めた。なぜならゆくゆくウエリントン公爵は戦費の現地への送金のために金塊を利用する必要があるとにらんだからだ。

さらにロンドン取引所でディスカウントで取引されていた手形を買い、鞘取りする事も楽に儲ける素晴らしいやり方だった。