今日はいつもと趣を変えてデザインの話をします。

消費者はある製品を手に持った瞬間にそのクウォリティーの高さをたちどころに了解します。

iPhoneをすっぽり掌につつんだだけで、パワー・スウィッチをONにするまでもなくその高級感や完成度の高さを実感するわけです。

しかもデザインはスッキリしてごてごて余分なものはありません。

これは何でもないことのように思うかもしれませんが、実はとても難しいことなのです。

ハリウッドに君臨したファッショナブルなセレブにスリム・キースという女性がいます。彼女こそシンプルな美しさという事に関する最高権威だと言われています。
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一体、スリムはどうやってその境地に達したのでしょうか?

彼女はワーナーブラザーズの有名な映画監督、ハワード・ホークスの奥さんです。つまり彼女自身は女優でもなければ脚本家でもありません。

スリムは『ハーパース・バザール』などのファッション雑誌の表紙に何度も登場したし、ベスト・ドレッサーとして数々の賞を受けました。

新聞王、ウイリアム・ランドル・ハーストのハースト・キャッスルの常連で、アーネスト・ヘミングウェイ、トルーマン・カポーティ、クラーク・ゲーブル、ゲイリー・クーパーなどと浮名を流したわけですから筋金入りのビューティフル・ピープルだと言えるでしょう。

彼女は自分のファッションの秘訣を次のように語っています;

I somehow knew there was a glut in the market, so I opted for a scrubbed-clean, polished look.
私は世の中がゴテゴテしたもので溢れていることを本能的に悟った。だから簡潔で、それでいて洗練されたスタイルを目指すことに決めたの。


次の写真は日本が太平洋戦争を戦っている頃のスリムのファッション写真ですが、古臭さは全く感じさせません。
Slim3


当時ホークスは同じワーナーブラザーズが1942年に出したヒット作、『カサブランカ』を超える映画の構想を温めており、ヘミングウェイのとある小説の映画化権を手に入れていました。しかし自分のイメージにぴったりくる女優が居なかったのでそのプロジェクトはお蔵入りになっていたのです。

スリムは(ひょっとしてハワードが追い求めているイメージは妻である自分のイメージではないか?)という事に気が付きます。

そしてファッション雑誌に出ていたローレン・バコールを見て「この娘こそ、私の化身だ」と直感して旦那にバコールと契約を結ぶことを勧めます。その時の様子を回顧してスリムは次のように語っています;

Betty was just outstanding. I knew that she was the unknown Howard had been searching for. She was certainly my taste in beauty-scrubbed clean, healthy, shining, and golden. And there was definitely a bit of the panther about her.
ベティ(=ローレン・バコールの本名)は本当にすばらしい娘だった。彼女こそハワードが長年探し求めてきた未開拓の新人だと直感した。彼女の美しさは私の趣味とピッタリだった。つまり簡潔で健康的で黄金の輝きをもっていた。それに黒豹のような野生を感じさせた。

そして19歳で未だ映画の世界を全く知らないローレン・バコールの指南役として彼女にいろいろ指導します。

その結果、自分の雰囲気を「スリムの銀幕版」として忠実に再現したのが『To have and have not』なのです。


(なお、この映画に出てくる数々の有名なセリフ、たとえばYou know how to whistle, don't you?などはすべてスリムが考え出したものであり、この映画の脚本を担当したウイリアム・フォークナーや原作の作家、アーネスト・ヘミングウェイの創作ではありません。)

さて、ひとことにシンプルと言いますけど、無駄なものを一切排するというプロセスは実は簡単なようで誰にでもできることではないのです。

いや、凡人ほどいろいろゴチャゴチャ追加したがる傾向があります。

それはデザインというものに対する研ぎ澄まされた感覚が欠如しているからです。

アップルのことを「あんなものはすべてパクリだ」と鬼の首を取ったように言う人がいますけど、そんな事は誰でも知っている事実です。

むしろ重要なことは他人が最初に考え出したアイデアでも、それを自分の製品作りをする際にもっと高い次元に洗練する(scrub)という作業です。

例えば「ジョブズがパクッた」と批判されることの多いゼロックス・パークが考え出したマウスというコンセプトにはボタンが3つありました。

でもスティーブ・ジョブズはそれを製品化する際にボタンを1つに簡素化しているのです。これなら「押し間違い」がありません。

簡潔で、洗練されたデザインに到達するまでにはムダなものをどんどん排除してゆかねばならないし、技術者の立場からすれば「裏側でやらなければいけない作業」はどんどん増えるのです。

『To have and have not』の映画のセリフを創作する過程ではアーネスト・ヘミングウェイとウイリアム・フォークナーという、ともにノーベル賞を受賞した大物作家が二人がかりで格闘した脚本をスリムがバサバサ切り捨てて、インパクトのある会話だけに昇華したのです。

スリムが「ダメだし」を繰り返したためウイリアム・フォークナーは脚本の書き直しの連続で、「脚本家からタイピストへダウングレード」され、精神的スランプに陥ったとされています。

スリム・キースの「さりげないシンプルな美しさ」は常人には到底到達できない至難の業だということがこのエピソードからもおわかりいただけるかと思います。

デザインはアップルのDNAでありpassion(情熱)です。

その事実を見落とすとアップルという会社の強さを理解することはできなくなると思います。