昨日、ウィスコンシン州のシーク教徒(ヒンズー教の改革派)礼拝所で銃撃事件が起こりました。これはコロラド州オーロラの映画館での乱射事件の直後だったこともあり、「またか」というショックをアメリカ人に与えています。

メディアが乱射事件を報道すると、それを猿真似する同様の犯罪を助長する効果が指摘されています。

メディアとしては微妙なバランス感覚が要求されるわけです。

たまたま二つの事件が米国の中西部で起きた関係で、或る「田舎支局」のレポーターの出番が多くなっており、その思慮深いレポーティングがちょっと注目を集めています。

レポーターの名前はウォール・ストリート・ジャーナルのキャロライン・ポーターです。

まず下はコロラド州オーロラの映画館での乱射事件に関する彼女のレポーティングです。



動画を見ればわかりますが、犯人をglorify(礼賛)することにならないよう、気配りが感じられます。また犠牲者の家族やコミュニティの結束に主に焦点を当て、センセーショナリズムに走らない報道に心掛けていることがわかります。さらに自分が直接取材しなかったことは、軽率に話さないというプロフェッショナリズムも感じられます。


次はウィスコンシン州のシーク教徒礼拝所での銃撃事件に関するレポートです。

ヘイトクライム(憎悪犯罪)というラベル付け(labeling)を、丁寧に避けている点に注目して下さい。




キャロライン・ポーターはネット時代の新しいジャーナリズムを代表する記者のひとりです。その特徴は、インターネット、SNS、iPhoneなどの新しいツールがもたらす利便性、とりわけ以前よりもっと細かく、丁寧な情報の発信が可能になる点をフルに活用し、一般庶民とどう「つながる」かという問題に主眼を置いて、ニュアンスに満ちた報道を心掛けている点です。

彼女はこのような新しいメディアのありかたに関して、ずっと考えてきたレポーターであり、「北アイルランド問題をメディアがどう報道したか?」というテーマで、フルブライト奨学金を得て1年間調査旅行もしています。

下の動画はロンドンのグレシャム・カレッジでの彼女のスピーチです。(収録場所はミュージアム・オブ・ロンドン)


ポーターは「メディアは事件の現場に急行し、アクションを報道するのに忙しいけれど、事件のコンテクスト(文脈)を説明するのを怠りがちだ」と指摘しています。

特に賛成派と反対派の両極端の立場だけが報道され、その狭間に置かれ、事件に巻き込まれた一般庶民の視点は無視される場合が多いです。「これは公平な報道なのか?」そういう問いかけをポーターはします。

それは換言すれば「メディアは平和へのプロセスを助長するのか? それとも対立を煽るのか?」という問題でもあります。



ポーターはこのスピーチの中で、公共放送の役割についても言及します。

1920年代にBBCが出来た時、BBCは「視聴者が知るべき情報を提供する」という価値観を打ち出しました。これは「視聴者にウケが良い番組を提供する」とは根本的に違う立場です。商業放送ならウケが良い番組を提供するのが正しいけれど、公共放送の立場は違うというわけです。

ポーターは「ベートーベンのソナタをBBCで初めて聴いて、クラッシック音楽にめざめた視聴者が居るとする。もしそれがきっかけでその視聴者が音楽家になったとすれば、それは公共放送という社会がサポートするサービスがコミュニティに何かを“お返し”しているひとつの例だと言える」と指摘します。

昔の報道モデルだと単に双方の言い分だけを伝えるので、そのどちらかを支持する視聴者にとってはステレオタイプ的な意見を補強する役目しかありませんでした。

その対立する意見の中間に挟み撃ちにされている、庶民の立場から、対立の問題を考えた場合、どうなるか? ポーターはこの点に注目して、新しいメディアの在り方を模索します。

メディアの報道に庶民を参加させ(ポーターはそれをcivic engagementと呼んでいます)、彼らの意見や主張を語らせる事で「ガス抜き」効果を得る一方で、庶民の参加がタブロイド的なセンセーショナリズムに陥らないよう、バランスを取る必要性も出るわけです。

ポーターのリポーティングには、そのような様々なデリケートなイシューを踏まえた上での抑制が効いており、「新人類」的な新しさがあると思います。