Digital Native

ネットが我々の暮らしの中に定着して久しいです。Always connectedの環境の中で、我々の娯楽のありかた、就職のしかた、勉強の方法、恋愛など、あらゆる行動に変化が出ています。もちろん、投資も例外ではありません。

【デジタルネイティブ】のシリーズは不定期にUPします。そこではこの新しいoperating environmentの中で我々がどう変わってゆくのか、どうあるべきかについて考えてみます。

なお、このシリーズでは敢えて英単語もどんどん説明抜きに使用してゆきます。なぜなら、それがDigital Nativeの置かれた、新しいリアリティーだと思うからです。

最近では知らない単語がウェブ上に出てきても、カーソルをそっと添えるだけで訳語がポップアップします。そんな超便利な世界に既になっているにもかかわらず、「全ての新しい造語、英単語、アクロニムに懇切丁寧な解説が付いて当然だ」という態度は、読者の側の甘え、怠惰さの表れ以外の何物でもなく、それ自体が、デジタルネイティブ的でない、年寄りの発想ではないでしょうか?

先日、下の息子の高校(サンフランシスコ郊外の、公立高校)の父兄懇談会に行って(世の中、こんなに変わったのか!)と衝撃を受けたことがあります。


息子が取っている授業のひとつにAP Calculus BCというのがあるのですが、その先生は夏休みの期間中に自分の講義を全部動画にして、9月の新学期から「家で授業を見なさい」と宣言しました。それでは学校ではなにをやるかと言えば、homeworkを個別指導するわけです。

つまり本来、学校では授業を聞いて、家に宿題を持ち帰るという昔のやり方が、完全に逆転してしまっているわけです。

息子はこの新しいフォーマットをいたく気に入っているようです。

「ちょっとわからなくなったら、動画をリプレイすればよいし、自分のペースで勉強ができる。わからないところは学校で個別指導を受ければ良い。いままでなら、一対一で先生に教えてもらう時間が限られていた」というわけです。

もちろん、アメリカの高校の全ての授業が、ここに書いたような逆転現象を起こしているわけではありません。いや、ここに書いたような授業形態は、まだ例外的だし、そもそもこのような授業形態になった理由は米国の公立高校の予算削減のプレッシャーに負うところが大きい気がします。

アメリカではデキる生徒はHonor couseやAPクラスなどの、より難しいコースを選択することが出来ます。APクラスは大学1年生の一般教養の授業と同じレベルであり、日本の高校二年生の年齢になれば、そのような大学級の授業が受けられるわけです。そしてCollege Boardが行うAPテストに合格すれば、場合によっては(=カリフォルニアの大学に進学した場合)大学の一般教養の単位として、それが既に習得済みとして認められるようになっているのです。

しかし高校で幾つもそのような上級者向けのクラスをオファーするためには沢山のコースを新設する必要が出てきます。それはコースの細分化を招き、ごく一握りの優秀な生徒のために先生の時間を沢山割く必要が生じてしまうのです。

このため二つ以上のコースを、同じ先生が、同じ時間割の中で兼任するという変則的な状況も沢山生まれています。これはイメージとしては過疎地の学校で小学1年生と2年生のクラスを同じ先生が同時に教えるような感じです。

もちろん、内容が大きく異なる二つの授業を、一人の先生が同時に講義することは不可能に近いです。「いっそのこと、授業を全部ビデオにしてしまい、学校では生徒がビデオを視てわからなかった箇所だけ指導しよう」という発想は、そうやって生まれたわけです。

なお、高校の授業における動画の利用は別に数学の授業だけでなく、他の授業でもどんどん進んでいます。例えばAP Frenchの授業ではYouTubeでフランス語の動画を視るのが基本になっており、フランス語の先生は個々の生徒の問題点を補習するのが主な授業時間内での仕事になっています。授業をYouTubeにしてしまう利点は何度でも同じ個所を聞き返すことが出来る点にあります。生徒は学校でもYouTubeのフランス語の授業を閲覧し、家に帰ってその続きを視ます。

このアプローチを仮に日本で採用すれば「そもそも先生の英語の発音がおかしいから、英語が上手くならない」という問題自体、無くなってしまうわけです。

もちろん、僕は「全部動画にしてしまえ!」という事を主張しているのではありません。またパソコンを授業に使うことの是非をここで論じたいのでも、ありません。

そうではなくて、ウチの息子のように小さい時からXbox-liveでゲームをやって育ってきた世代にとって、パソコンから学習するという事は異質な体験ではなく、ごく自然なことと受け止められているという事実を指摘したかったまでです。