新しいメディアには、その新しいメディアにふさわしい表現形態があるはずだ……

これは僕がずっと考えてきた事です。

そしてそれは何もキンドル・ダイレクト・パブリッシングだけに限定した話では、ありません。

Market Hackひとつを例にとっても、「器にふさわしい表現形態」の試行錯誤は、日頃からいろいろやっていることは読者の皆さんならご存知だと思います。

(そのたびに芸風がコロコロ変わって、皆さん辟易していると思いますが……笑)

ブログメディアの場合、コンテンツを世間に向けて発信する際に、大きくて、固定的なインフラストラクチャを必要としません。

そのため、どんな書き方がいちばん読者に満足してもらえるか、そのオプティマル(最適)ポイントを求めていろいろ試してみることは、決して悪い事ではないと、僕は考えています。

話がキンドル・ダイレクト・パブリッシングの事からブログの事に脱線したけど、実はキンドルで出版する際も、上に書いたようなオプティマルを求めて継続的に微調整するということが、あってもいい。

なぜなら初めて自分の本をUPする際には、これまで書いてきたような、いろいろな留意点をクリアする必要があるわけだけど、それを別にすればKDPによる出版は、実はブログの記事をUPするのと大差ないほどカンタンだからです。

出版の頻度や本の長さに関しても「これをやっては駄目だ」というルールは、存在しない。

実際のところ、僕がいきなり三冊を矢継ぎ早にUPしたのは(最初から既存のルールを打破しよう)という意図によります。

本の長さについては縦書きのマイクロソフト・ワードで60~70枚程度、つまり紙の本にすれば70ページから90ページ程度の長さにしました。これも意図的な短さです。なぜならこの長さなら、普通の文庫本では薄っぺら過ぎて「物理的に、本にならない」と拒絶されると思うからです。

でもキンドルでずっと英文の書物を読んできた経験からすれば、経済書や古典などは、どうもしっくり来なかった。比較的リズムの良い、例えばレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』のような作品が、いちばんeペーパーに適していると感じたわけです。

そこで、スタイルという問題に関して、考え込んでしまいました。

昔、僕がダイヤモンドZAiオンラインでコラムを書き始めた時、当時僕を担当してくれていた井口さんから「ウェブの画面上で読者が記事を読む場合、改行を多目にしないと読み辛いですよ」とアドバイスしてくれました。それで改行を増やして原稿を再提出したら「もっと改行を増やして! ニ行程度書いたら、すぐ改行して!」と言われて、驚きました。

でも実際にチカチカするPCの画面で文章を読むと、改行が多い方が論旨を追いやすい……

まあそんな風に、デバイスが逆にスタイルを規定するという事が、起こるわけです。


KDPで本を出すときも、わざと改行をメチャ多くしたのは、そのためです。

僕はキンドルというデバイスは今、アメリカで普及しているよりも、もっと高い普及率を日本で達成すると確信しています。(もちろん、すぐにではないけれど)

それはどうしてか? と言えば、日本は家が狭いので本の置き場所に困るし、多くの人々が電車通勤だからです。それらの環境条件は電子書籍リーダーという商品を訴求してゆくのに極めて適しています。

するとコンテンツの創作に際しても(満員電車の中で、すし詰めにされながら読む本って、どんな内容だろう?)という事に留意しながら書かれるべきだと思うのです。正解はひとつとは限らないでしょう。

僕が自分の本を書くにあたって、ある程度「マンガ的」にシーンの切り返しを早く、書き進んでいったのは、そういう考えからです。

メディアがスタイルを規定する……これはマーシャル・マクルーハンが最初に主張した考えだと思います。そこで有名な例として詩人E.E.カミングスのスタイルを示し、タイプライターというデバイスが、その「パチパチ」という叩く音で創作者に、逆にリズムを伝え、それがまた新しいインスピレーションにつながる……というフィードバック・メカニズムを説明しています。

下はE.E.カミングスの作品の一例です:


"kitty". sixteen, 5' 11", white, prostitute.

"kitty". sixteen, 5' 11", white, prostitute.

ducking always the touch of must and shall,
whose slippery body is Death's littlest pal,

skilled in quick softness. Unspontaneous. cute.

the signal perfume of whose unrepute
focusses in the sweet slow animal
bottomless eyes importantly banal,

Kitty. a whore. Sixteen
……………… you corking brute
amused from time to time by clever drolls
fearsomely who do keep their sunday flower.
The babybreasted broad "kitty" twice eight

--beer nothing, the lady'll have a whiskey-sour--

whose least amazing smile is the most great
common divisor of unequal souls.

from Tulips and Chimneys (1923)


どうですか? ポキポキ折れた表現や、…………とか- - など、タイプライターでしか表現しえない手法を、大胆に取り入れている事がわかると思います。

日本のクリエイター達の中で、このような新しい試みに取り組んでいる人が居るかどうかについては、僕は不勉強なのでよく知りません。

でも普通なら混じりあわないものを、敢えて融合させるという意味では『もしドラ』などは新しいコンテンツの在り方を模索した好例と言えるのかも知れません。

文章のスタイルで、敢えて、意図的に、おおっぴらに実験する……そういう意味では片岡義男が『スローなブギにしてくれ』などの70年代(だっけ?)に発表された一連の作品で、かなり冒険的なことが試みられていたけど、、、その後は目覚ましい成功というものは、少なくとも僕は知りません。

そういろいろ考えて来ると(どうせKDP試すなら、自己出版らしい間違いの犯し方を最初から狙った方が、いいな)という気になったのです。

僕の場合、投資が専門だから投資の本を出すのが、ごく当り前のアプローチだろうけど、それでは全くチャレンジが無い。

自分の性格としてチャレンジの無い地平には、燃えないし、萌えない(笑)

(三部作の中では『いきなりニューヨークで面接しろと言われても、困ります』が最も自分にとってチャレンジの無い、萌えない本でした)

なぜなら、それは「出来て、当り前」だから。

ところがPulp fictionを書くとなると、これはリスキーだ。(自分に、本当にできるだろうか?)という不安が、いっぱいある。

で、僕の主義として、そういうギリギリのところでオペレートするという事を昔から自分に課しているので(この線で、トライしてみよう)という決心は、カンタンについたわけです。

モデルの話とか、ストリッパーの話とかにチャレンジした理由は、目を瞑っていても書ける「株モノ」のような、自分にとってチャレンジの無いものから、なるべく遠い処で勝負してみようと思ったからに他なりません。

(ストリッパーの話を書こうと決断させたきっかけはFacebookでチャットしていたとき、田端さんが「外国のストリップクラブには、行ったことが無い」と洩らしたのを見て、「なんて勿体ない!」と思ったことに由来します)


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