カントリースタディ ロシア


1957年から1987年までのソ連の経済はいわゆる5カ年計画に基づいて運営されてきました。そこではゴスプラン(国家計画委員会)が全国レベルでの生産目標を立て、それに基づいてコルホーズ(kolkhozy)、ソホーズ(sovkhozy)などに代表される下部組織が地方レベルで各々の生産目標を立てるわけです。

この計画の実施の為に約70の政府機関が設置され、素材から完成品まであらゆるレベルでの生産が監督・監視されました。

資源や人材の配分は政府が決定し、価格はあくまでも帳簿上の記録の為に存在し、西側の市場経済のように物価が資源や人材の配分を自然に決定するということはありませんでした。

政府は需給関係ではなく、政治的配慮からものの値段を決めてゆきました。例えばパンや電灯光熱費は実際にそれらを生産するコストより低く価格が設定されました。この為、穀物よりも最終製品であるパンの方が安いので農家が家畜に飼料ではなくパンを与えるということも平気で行なわれていたそうです。

そういう非効率に加えて労働者のモチベーションを維持するのが困難であったこと、さらに価値の分配に際していちいち監督・監視しなければいけないので経済の「間接部門」が肥大化したことなどが徐々にソ連の計画経済を活力の無いものにしてしまったわけです。

1985年に書記長に就任したミハイル・ゴルバチェフはこうした現状に限界を感じ、ペレストロイカ(政治および経済の改革)、グラスノスチ(情報の公開)などの改革を提唱し、沈滞するソ連経済の梃入れを試みます。

しかし、1986年に起こったチェルノブイリ原子力発電所の大事故などもソ連の求心力を弱める結果となり、1989年11月にはベルリンの壁が崩壊、ソ連邦に属していた国々は続々と連邦を離脱します。1991年8月には一連の改革に反対する共産党の保守派が画策したクーデターが起こります。つい2ヶ月前にロシアの大統領に選出されたボリス・エリツィンはモスクワの議会を取り囲んだ戦車の上によじ登り、クーデターが違法であるという演説をしました。この時は民主主義を望む国民の感情の機微をエリツィンが鋭く察知したエリツィンが危機一髪で改革を救った格好になったわけです。

しかし、1991年頃のロシア経済は大変差し迫った状況にあり、砂糖、ミルク、食肉などあらゆる食料品、そして生活必需品が店頭から消えました。エリツィン大統領は状況打開の為に大きな博打を打つ決心を固め、経済学者のガイダールを副首相に任命し、市場経済への移行のプランを全て一任します。

ガイダールはロシアでも有名な共産党幹部の家系に生まれ、一家が海外の任地に駐在させられたことなどから普通のロシア人には許されていない西洋の書物などに接する機会がありました。ガイダールはアダム・スミスやポール・サミュエルソンの著書に触れるうちにソ連の経済がいずれ取り返しのつかない危機に瀕することを予感し、早くから有識者の集いを組織します。

ソ連の取るべき新しい経済政策はどうあるべきかを討議する非公式なシンポジウムは既に1986年から毎年開催され、後に国家企業の民営化の責任者となったアナトリー・チュバイスなど新しいロシアの経済を動かしてゆく中心的な人物の多くがこのグループから輩出されます。

その後、ガイダールは共産党の機関誌である『コミュニスト』の経済記事の編集者に任命されたことから、検閲を心配することなく新しい経済の在り方について論陣を張ってゆきます。従って1991年11月にガイダールが副首相に任命され、ゴスプラン(国家計画委員会)の総責任者になった時点では既に市場経済以外にロシアを救う道は無いということをガイダールは確信していました。

問題は計画経済から市場経済への移行を具体的にどう進めるか?ということです。そのアプローチとしては段階的に徐々に市場経済を導入する方法と、共産主義の枠組みを即、解体して、いきなり市場経済へ移行する、所謂、「ショック療法」という方法が議論されました。

今から振り返って見ると、徐々に市場経済に移行するという選択肢は「時すでに遅し」で実際には存在しえなかったように思われます。「ショック療法」の影響はそれまでベールに包まれていたソ連経済の内包する病理を全て一度に曝け出してしまうというものでした。1999年までにはロシアの経済規模は10年前の約半分程度迄縮小し、この過程でロシア国民が味わった辛苦は1929年のNY市場の大暴落に端を発する大恐慌の時以上だったと言われます。

「ショック療法」の施行第一弾として1992年1月から電灯光熱費や一部の食材を除く殆どの品目に関して価格統制が取り払われました。当然の結果としてその直後、ロシアはハイパー・インフレに見舞われます。価格の値上がりを容認する狙いは退蔵されている商品を市場に引き出し、物資の不足を解消すること、また、儲ける機会を提供することで生産を刺激することにありました。


しかし、長年の共産主義のリズムに慣れたロシア経済が、瞬時に新しいスピードについてゆけるはずはありません。経済の混乱はすぐに解決するどころか混迷はますます深まり、政府の内部でも経済改革を押し進める決意は揺らぎました。その結果、支持を失ったガイダールは1年足らずで副首相の地位を辞任に追い込まれます。

この時に断行した改革の大きさ、その痛みの大きさなどから考えて、誰がやっても結果は同じだったのではないでしょうか?

ガイダールがロシアの市場経済をデザインした「設計者」だとすれば、その施工を実際に担当したのがアナトリー・チュバイスです。

チュバイスはロシアの市場経済移行初期にあって最も傑出した行政手腕ならびに交渉力を持っていた人物です。また、世界銀行やIMFに対する心証もすこぶる良く、このロシアの混乱期に一連の改革が成就できたのはチュバイスの働きによるところが大きいと思います。

チュバイスの最初の大きな仕事は国営企業を民間に払い下げる仕事でした。この払い下げにあたり、バウチャー、つまり将来株式を購入する権利が記された引換券が国民に配布されました。これが所謂、バウチャー・プライベタイゼーションと呼ばれる方法です。

ところで民営化はそれまで国営工場の経営にあたっていたソ連のエリートにとって自分の地位がおびやかされる危険を意味します。ですから民営化という時代の流れに逆らいたいという心の動きが出ることは当然です。つまり反動勢力が形成されたわけです。

そこでチュバイスらは反動勢力を懐柔し迅速に民営化を推進するために工場の管理・監督者達に沢山の引換券を割り当てるという譲歩を余儀なくされます。これが後に「赤い重役達(レッド・ディレクターズ)」と呼ばれる旧勢力が市場経済移行後のロシアでも一定の影響力を維持する原因となります。

1992年8月に発表されたバウチャー・プライベタイゼーション計画では1992年9月以前に生まれた全てのロシア人にひとりあたり額面1万ルーブルの引換券が発行されました。

この引換券を手にした国民は個々の企業が払い下げられるのを待ったわけですが、大多数の国民は株式市場というものは見たこともないし、それが将来、どういう富を生む可能性があるかを理解するのは土台無理な事でした。多くの国民が街頭に登場した引換券売買の闇業者に安値で引換券を売り渡してしまったのは無理もありません。こうして業者によって買い集められた引換券はだんだん一部の富豪に買い集められました。これがのちにオルガルヒ(豪商)と呼ばれる資本家がロシアの産業界を牛耳るきっかけとなったわけです。

こうして曲がりなりにもロシア政府は1994年までに国営企業の過半数の株式を払い下げることに成功しました。あくまでも大まかな目安ですが、この時点での国営企業の所有関係は6割が民間、4割が政府の持ち株というイメージで良いと思います。

しかし、折角、民営化が進められたにもかかわらずロシアの経済は依然混迷の極みの様相を呈しており、エリツィン大統領の人気も落ち目でした。エリツィンは大統領選挙にむけて挽回策を練る必要がありました。しかし、国庫は払底しているし、共産主義の復活を願う勢力は日増しに隠然たる影響力を強めています。後に禍根を残すこととなった局面打開の為の方便が登場した背景にはこのような陰鬱な経済的閉塞感が少なからず影響していたことは見逃せない点だと思います。

さて、この閉塞状況に乗じて旨い「解決策」を提案する男が登場します。ウラジミール・ポターニンです。彼はインテロスという持ち株会社を支配していたのですが、資金繰りに困っている国営会社に融資(ローン)をつける代わりに、経営にも口出しさせて呉れ、という取引を提案します。そうすれば大統領選挙でもエリツィンを支持するという暗黙の了解がここで交わされたわけです。

「経営にも口出しする」ということはつまり支配証券としての株式の譲渡を意味するのですが、あからさまにそれを前面に打ち出すと聞こえが悪いので、表向きには「経営を預かる」という表現が使われました。これが後に「ローン・フォア・シェアーズ」と称されるロシア政府と民間のビジネスマン達との間の取り決めです。

ローン・フォア・シェアーズ方式による融資要請は内閣で検討され、1995年に大統領令として発布されます。これを受けてウラジミール・ポターニンは元ソ連の鉱山公社であったノリリルスク・ニッケルを、そしてミハイル・ハダルコフスキーは大手石油会社のユコスを乗っ取ります。ここで問題となるのは折角、政府が温存していた民営化後の持ち株が融資(ローン)という名目で、二束三文でこれらの狡猾なビジネスマンに掠め取られてしまった点でしょう。

この時点でロシア国民やロシア政府はそれらの企業の株式を余り所有していなかったので、ロシアに訪れた株式ブームの恩恵を受けることが出来ませんでした。

ロシアの外貨取得の最重要手段は石油などの地下資源の輸出です。少なくともロシアにおける石油生産の35%程度は輸出に回されています。ところがそれまで順調に伸びてきたロシアの原油生産は80年代前半にピークをつけた後、伸び悩む様相を呈しました。一方、原油価格は1979年の第二次オイルショックの時にピークをつけ、80年代に入ってからは下落基調でした。

この二つのことからロシアの外貨収入は年々減少するという状況であったと推察されます。ソ連邦を構成する周辺各国の結束が緩んだことも、ペレストロイカによる改革の必要性が「待ったなし」になったのも、元をただせばこの原油生産の頭打ち、ならびに石油市況の低迷によるところが大きかったわけです。

さて、伸び悩みながらも比較的安定的に推移していたロシアの原油生産が90年代の前半に突然、つるべ落としに激減するという事態が起きました。

その理由としてソ連崩壊、そしてそれに続く「ショック療法」による経済の混乱が油田の操業にも悪影響を及ぼしたとも考えられますし、長年、無理な生産を続けてきたことで、技術的にもはや従来の方法では汲み上げられなくなったからとも言えるでしょう。さらに当時アゼルバイジャン地方の政情が不安定になり、油田のメインテナンスに必要な機器の供給が滞ったりしたことも状況を一層悪くしました。

いずれにせよ1988年のピークから1995年にかけてロシアの原油生産は実に40%近くも落ち込みました。一方、石油価格は1998年には15ドル近辺まで下落(1997年の平均価格に比べて40%以上の下落率)しましたからこの時期ロシア経済は大変な圧迫を受けていたことは想像に難くありません。1998年の6月にはロシアの政府債(GKO)の暴落で利回りは60%に、7月には150%にと跳ね上がりました。市場は明らかにデフォルトを織り込み始めたわけです。

折角、ヨチヨチ歩きし始めたロシアの市場経済、さらに民主主義を救う為にはこの急場を何とか乗り越えないといけない…国際通貨基金(IMF)がロシアに対して支援を発表した背景にはそういう義務感があったと思われます。1998年7月20日、IMFは国際融資団の総額226億ドルの緊急融資パッケージのうちのIMF分として、112億ドルの融資を発表します。このうち初回送金分の48億ドルがすぐに用立てられたのですが、この資金はルーブル相場維持の為に投入され、あっという間に費消してしまいます。なぜなら資本逃避を試みるロシアの金持ち達が「政府がルーブル相場を支えている間に逃げ出せ!」とばかりどんどんルーブルをドルに換金し、スイスの銀行などに送金してしまったからです。結局、ロシア政府は利払い停止とルーブルの切り下げを発表せざるを得ませんでした。1999年1月までにはルーブル相場は98年夏の水準から75%も下落しました。

これまで見てきたようにロシアの計画経済から市場経済への移行の第一ラウンドは経済の混乱、過半数のロシア国民の困窮化など、悪いことばかりだったと言えます。1989年の段階では貧困層はロシア国民の2%に過ぎませんでしたが、1998年にはこれが約24%にまで急増しました。ロシアの「虎の子」である資源産業はごく少数のオリガルヒ(豪商)の手に渡ってしまいましたし、彼らは急いでその富を国外逃避させてしまいました。

のちにユコス事件でオリガルヒに対してプーチン政権が厳しい追及を始めた背景にはこのような社会的不公平に対するロシア国民の憤りがあったことは見逃せないと思います。なお、デフォルト後のロシア経済はようやく立ち直る様子を見せ始めました。その理由の第一はロシア政府が利払いの負担から開放されたことによります。また、二番目の要因としてルーブルが切り下がり、その結果輸入品の値段が跳ね上がったことからロシア国内のメーカーの競争力が向上したことが指摘できます。

エリツィン大統領の再選の際にオリガルヒが暗躍したこと、また、IMFからの緊急融資に際してもオリガルヒ達が実際にはロシア政府の意思決定にいろいろ注文をつけたことなど、オリガルヒの政治的発言力の高まりを感じさせるエピソードは過去にも散見されました。

それがいよいよ加速するのは2003年にユコスのミハイル・ハダルコフスキーが政治的野心を顕わにしはじめた時期です。プーチン大統領はオリガルヒの影響力を抑える為にユコスに対して脱税の容疑で追求を始めます。2003年10月25日にミハイル・ハダルコフスキーは西シベリアの空港で拘束され、2004年にはモスクワ調停裁判所がユコスに990億ルーブルの追徴金を課します。ユコスはその支払いの為に生産子会社、ユガンスクネフチガスを売却する決断をします。ユガンスクネフチガスは結局、ロシア政府系の石油会社、ロスネフチに吸収されました。なお、欧米の投資家の間ではユコス事件を見てロシアの私有財産権、株主権などに疑問を挟む声が強かったですが、ロシア国内ではユコスに対する追及は一般に好意的に受け止められました。

1993年に制定された憲法でロシアは形式上、司法、立方、行政の三権が分立した西欧型の民主連邦国家となりました。ロシアの議会はフェデレーション・カウンシル(連邦会議ないしは上院:定数178名)とデュマ(国会会議ないしは下院:定数450名)から構成される二院制です。また、ロシアは大統領制を採っています。

ここで重要なのはロシアの大統領は立法発議権を持っている点です。実際、ロシアでは沢山の大統領令が発令されています。これに対してアメリカの大統領は立法発議権を持たず、議会が提出した法案に対する拒否権だけを持ちます。ロシアの大統領の権限が大きいと言われる所以はここにあります。

現在のロシアの大統領はウラジミール・プーチンです。プーチン大統領はいろんな意味でこれまでのロシアのリーダーのステレオタイプとは異なるユニークなリーダーと言えるでしょう。それはプーチン大統領が若々しく、クールな実務家タイプだからで、これまでの典型的なリーダー像(たとえば「老け込んでいる」とか「大風呂敷」とかの形容がしばしば使われました)とは明らかに一線を画しています。

プーチン大統領は1952年10月7日生まれでレニングラード(今のサンクトペテルブルグ)出身です。少年時代は結構、暴れん坊だったようですが、柔道に打ち込むようになってまじめな青年になったと言われています。なお、柔道では1973年にはレニングラード市の大会で優勝していますから、かなり強かったのでしょう。プーチン大統領と柔道にまつわる話題としては2000年にプーチン大統領が来日した際、柔道の稽古に自らも参加して、小さい女の子に背負い投げを受けました。これは柔道の精神からすれば当たり前のことですが、ロシアの人々からすると一国の大統領が稽古とは言え背負い投げされるというのは驚愕すべきことで、「今度のリーダーは一味違う」ということを強く印象付けたとされています。

さて、プーチンはKGBに15年勤めたあと、母校レニングラード大学のアナトリー・ソブチェク教授の下に戻り、ソブチェクがレニングラード市長に選ばれた後を追って副市長となります。この副市長時代に外国のビジネスマンの接待などで海外との人脈を作りました。さらにクレムリンのパベル・ボロジン総務局長に請われてモスクワに行き、ロシアの国家資産の保全管理の仕事をすることを振り出しに、後にはクレムリンの管理本部で89の地方政府の知事との調整役を果たします。ソ連崩壊後、地方と中央との関係はタガが緩んで、地方政府を御することはたいへん難しくなっていました。プーチンはKGB出身ですからそういう勝手な振舞いをする地方の有力者を次々に首にしたり、逆に地方とのパイプを強化したりしました。

プーチンがクレムリンの管理本部に居た頃、前大統領のボリス・エリツィンはちょうど大統領二期目であり、安心して後を任せられる(つまりリタイアした後で裏切られたりしないという意味です)忠誠心の高い後任を探していました。エリツィンはプーチンの「身内や恩師を絶対に裏切らない」という性格に惚れて、プーチンを首相に抜擢します。折から当時のロシアではチェチェン情勢が緊迫しており、プーチンの最初の仕事はチェチェンに対して強硬な対応を行なうことでした。このチェチェン進攻がロシア国民に「強いプーチン」のイメージを与え、プーチンの人気がうなぎ登りに上昇しました。

チェチェン問題はロシアが昔から抱えていた問題であり、現在の政権に始まったことではありません。元をただせば300年前にピョートル大帝が南方遠征をし、コーカサス地方を制圧した時にいざこざのタネが蒔かれたと言えるでしょう。

その後、スターリンは言う事を聞かないチェチェンの住民を懲らしめるために1944年に50万人にものぼるチェチェン住民を現在のカザフスタンに強制移住させるという乱暴な措置を取ります。スターリンなきあとチェチェン人は故郷に帰ることを許されるのですが、既に自分の住んでいた土地にはロシアからの入植者が住んでいたりして、居住権の問題などが起こりました。チェチェンの反目が根の深い問題であることはこれで想像頂けると思います。

2002年10月23日にモスクワ劇場襲撃事件が発生、900人近い人質が約40人のチェチェン過激派によって監禁されました。この時は2日後にFSBの特殊部隊が突入し、130人の死者を出しています。さらに2004年9月1日には北オセチアでベスラン学校占拠事件が起こります。この時は1000人以上の生徒や父兄が人質になり、銃撃戦の末、350人以上が死亡しました。プーチン大統領はこれらのテロ事件では一貫して妥協の無い強硬な対応を見せており、ロシア国民の大多数はそういう厳しい措置を支持しているそうです。

さて、プーチン大統領は経済面でもオリガルヒの専横を押さえつける為にユコス事件でハダルコフスキーを糾弾するなどタフな面を見せました。さらにユコスの生産部門であるユガンスクネフチガスを政府系石油会社ロスネフチに吸収させ、そのロスネフチをガスプロム(天然ガス公社)と合併させることによって政府の持ち株比率を過半数(つまり51%以上)まで引き上げ、外国企業から乗っ取られることの無いように下準備してからガスプロム株に対する外人持ち株規制を撤廃するなど、ビジネス・センス的にも一流であることを見せつけました。

プーチン大統領に対してはこうした功績に対する賞賛がある反面、中央集権が強まり、民主主義が後退しているという批判も外国からは上がっています。これに関してはロシア国民はそれほど不満を抱いていないように見えます。その理由は歴史的にロシアはずっと皇帝の下で支配されてきて、ボルシェビキ革命後も共産党による専制的政治が続いたからです。

その歴史的文脈からするとロシアの民主主義は「つい最近始まったばかり」と言って良いでしょう。ロシア国民に対する世論調査でも民主主義の擁護よりも、「兎に角、強くてしっかりしたリーダーに国を引っ張っていって欲しい」という願望が強いです。

カントリー・スタディは2005年から楽天証券のホームページで連載した『ADRを利用したBRICs投資』のシリーズを加筆、削除、アップデートしたものです。