「財政の崖」の論議はクリスマスで一時中断しています。オバマ大統領はサッサとハワイに行ってしまって、そのニュースがもたらされた頃からニューヨーク株式市場はじりじり下がっています。

「一体、大統領は何を考えているの?」

一見、議会における共和党と民主党のちからは拮抗しているように見えます。下院は共和党が支配し、上院は民主党が支配しているからです。このような構図は選挙前からずっと続いてきたことで、今にはじまったことではありません。

このため投資家の間には「共和党も民主党も、立場は五分五分……財政の崖から落ちれば、双方が痛み分けになる……」という考え方が根強くあります。

でも崖から落ちることが、本当に双方にとって等しく好ましからざる結果をもたらすのでしょうか?

交渉が物別れに終わる事…それをビジネススクールではNegotiated Agreementが無い状態と教えます。物別れに終わることより、ちょっとだけマシな結末が、Best Alternative to a Negotiated Agreement、つまりBATNAです。(もともとハーバード大学のロジャー・フィッシャーがこの概念を提唱しました)

つまり気難しい交渉相手と、やっとこさ何らかの合意に達しても、その交渉の果実が余りにショボイ成果であれば、そもそも苦労して意見調整すること自体が徒労だという考え方です。

【事例】
あなたが中古車をディーラーに売りに行くとします。そのとき友人のAさんが「そのクルマ、売るのなら僕に売ってくれよ」と言いだします。「3,000ドルで買ってやる」

さて、あなたが中古車ディーラーに行くとディーラーのおじさんはあなたのクルマを一瞥して「まあ、ザックリ言って、2,500ドルなら買ってもいいね」と言います。(なんだ、それならA君に売った方が、トクだな…)そう思うと急にディーラーのおじさんと値段を折り合う努力をするのが疎ましくおもわれました。

「じゃあ、いいです。僕、帰ります」
ディーラーのおじさんは「あ、チョット待ってくれ!3,000ドルなら、どうかな?」と前言を翻し、より有利な条件を僕に提示してきました……。


上の例でA君が「3,000ドルで買ってやる」と言ったのがあなたのBATNA(交渉決裂時の最善の代替案)になっていることが、わかりますね。

若しあなたの心の中でBATNAがハッキリ認識されていなければ、上の例はどうなっていたでしょうか?

ディーラーのおじさんに「2,500ドルなら、買ってもいいね」と言われた時、「ハイ、そうですか……」と、すごすご同意していたかも知れません。BATNAをあなたが強く意識しているからこそ、心の余裕が出来、交渉力(レバレッジ)がUPするわけです。

欧米流のビジネス・ネゴシエーションでは相手のBATNAが何処にあるのかを探り出す事に多くの労力を割きます。これは就職面接などでも同じです。

さて、本題の「財政の崖」の議論に戻ると、共和党は「プランB」を党内でまとめることが出来ず、対案を出す作業は振り出しに戻ってしまいました。これはBATNAが無い状態です。(厳密に言えば2011年夏にやり残した、8,000億ドルの追加的税収の確保という案が、現在の共和党のスターティング・ビッドになっています)


一方、オバマ大統領は11月の大統領選挙に勝った後、1.6兆ドルの追加的税収の確保という「高飛車」なオファーを提示しました。

この両者の数字の差をPerceived bargaining set(ネゴの対象になっていると当事者同士に認知されている値)と呼びます。

今回の交渉の経緯で最も不安なのは、このPerceived bargaining setのレンジが、ほとんど狭まっていない点です。普通なら交渉成立に近づく過程で、オファーとカウンター・オファーの応酬で、両者の差異が縮まっていなければいけません。

今回、交渉が捗っていない背景には当事者どちらかのBATNAが、そもそも現在Perceived bargaining setだと考えられているレンジとはぜんぜんかけ離れたところにあるからではないでしょうか?

もっとざっくばらんな言い方をすれば(財政の崖から…落ちてしまった方がいいんじゃないか?)という『テルマ&ルイーズ』願望です。

そこでもう一度両者の置かれた立場を見直してみると、確かに議席数では民主、共和の両党のシェアは拮抗しており、交渉不成立の際の不利益は両党がほぼ等しく蒙るように見えます。しかし……有権者アンケート調査で「若しアメリカが財政の崖から落ちてしまった場合、誰の責任だと思いますか?」という問いに対しては「共和党が悪い」という回答者が圧倒的に多いのです。つまり民主党はわざと財政の崖から落ちることでその責任を共和党になすりつけることが出来るのです。

もうひとつの要因はオバマ大統領は既に二期目なので、次回の大統領選挙には立候補できないという点です。失うものが少ないので、鷹揚な態度で交渉に臨めます。

大統領がサッサとハワイに行ってしまって、投資家を唖然とさせたのには、このような背景があると思います。