サンフランシスコのカウンター・カルチャーが最初に開花したのは、ノースビーチである。

ノースビーチはもともとイタリア移民の多く住む場所で、ニューヨークのリトル・イタリーと雰囲気が似ている。すぐ近くにチャイナタウンがあるという点でも両者はそっくりだ。違う点があるとすれば、ノースビーチは坂が多いという事だろう。

サンフランシスコの町は1849年に「カリフォルニアに金が出たぞ!」というニュースでひと山当てようとする山師たちが殺到した。いわゆるゴールドラッシュだ。
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(出典:ウィキペディア)
短期間に人口が膨張したので、急勾配の、無理な場所にもどんどん小屋が立った。そんなわけで急坂のてっぺん付近には、粗末な家も多い。もちろん、地価の高いサンフランシスコの事、それらの家々の多くはお洒落にリニューアルされている。それでもノースビーチ付近の急坂に立つコテージ風の家並には、昔をしのばせる、急ごしらえのものも残っている。

1950年代にはノースビーチがビート・ジェネレーションの溜まり場になり、ジャック・ケルアック、ニール・キャサディ、アレン・ギンズバーグなどがこの界隈に住んでいた。ノースビーチ文化の中心となっているシティライツ書店は文芸作品を中心とした本屋であると同時に出版社でもあり、アレン・ギンズバーグの『吠える』を出版した版元だ。この『吠える』がわいせつ裁判の対象となったことでシティライツ書店は一躍有名になった。
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(出典:ウィキペディア)
ノースビーチにはカフェや風俗店などが多くあり、ボヘミアン的な若者の住み場所としてはこの上ない環境だった。しかしアパートの空きが少なかったので一部の若者達は当時家賃が安く、空き部屋が多かったヘイトアシュベリーに流れた。

ヘイトアシュベリーの名前は、ヘイト街とアシュベリー街の交差点からきている。ここはゴールデンゲートパークに隣接する地域で、ビクトリア様式の木造の古い家が多かった。
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(出典:ウィキペディア)
この地域は1906年のサンフランシスコ大地震による大火を免れたので、古い街並みが残っている。1950年代に入るとマイカーの普及で中流家庭がどんどん郊外に脱出した。その関係でヘイトアシュベリー地域はすっかりさびれてしまった。

カリフォルニア州が1966年10月6日付けでLSDを違法とし、その所持を禁じると、これに抗議するため、1967年1月にゴールデンゲートパークでヒューマン・ビーインという集会が開催された。ゴールデンゲートパークはニューヨークならさしずめセントラルパークに相当する、町中の公園である。グレートフル・デッド、クイックシルバー・メッセンジャーサービス、ジェファーソン・エアプレインなどのバンドがこの集会で演奏した。

これらの三つのバンドは、サイケデリック・サウンドの御三家として語られることが多い。その中で一番「変わり種」なのは、ジェファーソン・エアプレインだろう。当時のジェファーソン・エアプレインのボーカルはグレース・スリックという女性で、1967年にリリースされた『シュールリアリスティック・ピロウ』の中に収められて「ホワイト・ラビット」はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出て来る白い兎についての歌だ。ボレロ風の、おどろおどろしい曲想と、堅苦しい社会規範に対するあからさまな反抗を誓う歌詞は、およそ大衆ウケするようなものではないと思われたが、予想に反して全米トップ・テン入りするヒットになった。

ヒューマン・ビーインの集会には二万から三万人の参加者が集まった。マスコミがこれを報道したため、サンフランシスコで何か若者の運動が起こっているということがアメリカ中に知られるところとなった。

ゴールデンゲートパークの一番ヘイトアシュベリーに近い付近は公園が細くなっており、パンハンドルと呼ばれている。パンハンドルとはフライパンの柄という意味だ。そこでは、いつでもボランティアが無料で食パンやスープを皆に配っていた。こうしてパンハンドルには野宿する若者のグループが見られるようになった。彼らはドラムやギターなどの楽器を持ち込んで踊ったり歌ったりした。

ヒッピーたちは独自のメディアを展開しはじめた。有名なものではサンフランシスコ・オラクル誌が1966年9月に創刊された。サンフランシスコ・オラクルはヘイトアシュベリーの周辺の街頭でヒッピーによって販売され、その販売代金の一部はコミュニティ活動に投入された。
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(出典:ウィキペディア)
またローリング・ストーン誌は1967年の11月にサンフランシスコで創刊されている。この他、アンダーグラウンドのラジオ局も開局されている。

6月に高校や大学が夏休みに入ると全国から流れ込んでくる若者達の数はどんどん増えていった。モンタレー・ポップ・フェスティバルはそういう雰囲気の中で行われた。モンタレーはサンフランシスコの南、クルマで三時間くらいのところにある港町である。ここはジョン・スタインベックの『キャナリー・ロウ』の舞台になった町でもある。


モンタレー・ポップ・フェスティバルは五万人以上の聴衆を集め、三日間に渡って開催された。主な出演者は英国からはジミ・ヘンドリックス、ザ・フー、サンフランシスコからはジャニス・ジョプリン、ジェファーソン・エアプレイン、ロスアンゼルスからはクイックシルバー・メッセンジャーサービス、ザ・バーズ、バッファロー・スプリングフィールドなどである。なおジミ・ヘンドリックスはシアトル出身だが当時活動の拠点を英国に移していた。

モンタレー・ポップ・フェスティバルはサンフランシスコのミュージシャン達とロスアンゼルスのミュージシャン達が共同で企画したイベントであり、このとき初めて二つのグループが一堂に会した。このフェスティバルがアーチスト達に与えた影響は、どうだったのだろうか? 先ず英国勢はヘビーなサウンドで、数歩先を行っていた。これはサンフランシスコのバンドを焦らせた。自分達が井の中の蛙だったことに気付いたサンフランシスコのバンドは、これ以降、地元での公演を減らし、巡業に出る機会を増やした。一方、ロスアンゼルスのバンドはフォークをルーツにしており、時代がどんどんフォークからロックへと傾いていることになんとか追随しようとしていた。ところが逆に英国勢はロスアンゼルスのバンドに大きく影響を受けた。特に彼らが心酔したのはザ・バーズだ。

モンタレー・ポップ・フェスティバルの三日後の6月21日にヘイトアシュベリーで夏至を祝うフェスティバルが催された。モンタレー・ポップ・フェスティバルに参加した若者の多くは、そのままヘイトアシュベリーになだれ込んだ。こうして1967年の「サマー・オブ・ラブ」は最高潮に達した。ピークには十万人に上る若者がパンハンドルに溢れた。ヘイトアシュベリー一帯の交通は寸断され、ヘイト街は数ブロックにわたってコンサートを聞きに来た若者達で立錐の余地も無いほど埋め尽くされた。

「サマー・オブ・ラブ」を盛り上げたもうひとつの要因はエスカレートするベトナム戦争に対する抗議だった。1967年末までに46万人もの若者がベトナム戦争に駆り出された。当時は未だアメリカには徴兵制度が残っており、18歳から25歳の若者は選抜徴兵局に登録しなければいけなかった。反戦ムードが高まったひとつの理由はそこにある。

これだけ多くの若者がパンハンドルに詰めかけた割には、大きな問題は発生しなかった。それは一足先にヘイトアシュベリーに腰を下ろした先輩のヒッピーたちが、続々と到着する若者達をマリン郡など、他のコミュニティに誘導し、ヘイトアシュベリーが爆発するのをかろうじて防いだからだ。

しかし余りにも群衆が多くなってしまったので、もはや無料の食料を配るなどのボランティア活動は出来なくなってしまった。地元警察の前には家出した若者を探す親たちが尋ね人の張り紙を出し、掲示板がびっしり埋まってしまった。後からヘイトアシュベリーに到着するヒッピーほど、行儀の悪い問題児が多かった。このためヘイトアシュベリーのバイブレーションはそれまでの和やかなものから、ささくれたものへと悪化していった。

これを見た先輩格のヒッピー達は、テレビを見た若者達が地方からヘイトアシュベリーに出て来ないように「ヒッピーの葬式」というデモンストレーションを行った。そこでは担架の上に死んだフリをしたヒッピーが横たわり、葬送する儀式が行われた。

こんにちのヘイトアシュベリーはヒッピーにちなむ土産物屋やバーが並んでおり、ある程度、当時の雰囲気を残している。但しヘイト街のいちばん端のほうにある有名なレコード屋、アメーバ・ミュージックは「サマー・オブ・ラブ」が終わったずっと後になってから出店されたものである。

ヘイトアシュベリーで「サマー・オブ・ラブ」が最高潮に達した翌年の二月にビート・ジェネレーションのアイドルで、ヒッピー・ムーブメントの先輩格でもあったニール・キャサディがメキシコで不可解な死を遂げた。知人の結婚式に出席した後、線路伝いに次の町まで歩いている途中で意識を失って倒れたのだ。一説には薬物過剰摂取だったと言われるが、真相は明らかではない。

ジャック・ケルアックは『路上』を書いたきっかけとして、旅先のニール・キャサディから受け取った手紙の存在を挙げている。それがとても告白的で、心に訴えるものがあったので(これだ!)と直感し、ケルアックをタイプライターに向かわせたのだ。ケルアックも認めるように、キャサディ自身、文才はかなりあるほうだったのかもしれない。しかしキャサディの周囲にはアレン・ギンズバーグ、ウイリアム・バロウズ、ジャック・ケルアック、ケン・キージーなど才能あふれる文士が多すぎた。だからキャサディは心の底で彼らにコンプレックスを抱いていた。享楽的生きざまの鏡として神格化され、皆から愛されたキャサディの寂しい死に方には、どこかやるせないものがある。
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(出典:ウィキペディア)