1873年の大暴落で恩人のトーマス・A・スコットが大損し、破綻の危機に瀕し、カーネギーに助けを求めたわけですが、カーネギーはこれに「NO」と言ってしまいます。彼は後でこの拒否を後悔したといいます。

このへんから、楽観主義で、何事にも前向きで、労働者の置かれた境遇にも同情的なカーネギーの表向きのイメージと、内に秘められた自分自身のダークな部分とがしばしば衝突するようになります。

例えばカーネギーは他社の株を静かに買い占め、相手の経営者の給与や交際費を細かく調べます。そして同業者を集めた会合で、それぞれの製鉄会社の役員の誰が幾ら貰っていて、どんな経費を使っているというのを暴露して、労働争議を焚き付け、ストでそれらの会社の経営が苦しくなったときを見計らって、乗っ取りを企てるという、いわばマッチ・ポンプ的なやり方でどんどんライバルの経営権を掌握して行ったわけです。

また最新技術を導入し、画期的なパフォーマンスの鋼鉄を作るデュケイン製鋼所のようなライバルに対しては「あそこの会社の製品は、品質に問題があるから、使わない方が良い」と鉄道会社の経営陣にタレコミし、経営危機に陥れます。これは後にアイン・ランドが『肩をすくめるアトラス』で描いた、リアデン・メタルのエピソードで再現されています。

そうやって相手を倒産させておいて、会社を奪った後、しゃあしゃあとその「使わない方がいい」とアドバイスした製品を同じ鉄道会社に売りつけたわけですからカーネギーの狡猾さは、かなりのものだったに違いありません。

カーネギーは特にコストの把握で優れた才能があり、製造工程のひとつひとつのステップで、精緻なコスト分析を行いました。また次に世の中がどう変化するかの大局観もたいへん優れていました。コツコツと積み上げる方法でコスト削減してもかなわないような新しい技術が登場すると、あっさりと自分の持っている既存の設備を廃棄処分にし、更地から最も安い工場を建て直しました。劣勢に追い込まれたレガシーの資産に、いつまでもしがみついているのではなく、それらをバッサリと切るというのが、カーネギー一流の戦い方だったわけです。

こうしてカーネギーはブルックリン橋の架橋のための鉄鋼を全部提供するなど、事業の面では大成功を収めます。しかし徹底したコスト削減のためピッツバーグの労働者の賃金は低く抑えられたままで、大気汚染や、下水施設などの基本的な生活条件の整備には殆ど関心を払いませんでした。


カーネギーが師と仰ぐスペンサーがピッツバーグを訪れた際は「ピッツバーグに6ヶ月住むと自殺の理由が出来る」とコメントするほどでした。カーネギーは尊敬するスペンサーからそう言われて、失意の底に沈みます。

437px-Henry_Clay_Frickカーネギーは故郷を離れて33年後、スコットランドのダンファームリンを訪れ、故郷に錦を飾ります。この頃から外遊が多くなるのですが、留守はヘンリー・クレイ・フリックという番頭に任せました。

ヘンリー・クレイ・フリックはもともとピッツバーグの石炭のボタ山を経営していました。つまりカーネギーにコークスを供給する下請け業者だったわけです。

しかしフリックのビジネス・センスに目をつけたカーネギーは「自分のところに来て働け」と説得します。

フリックはいつまでもボタ山のオーナーという地位に甘んじている気はサラサラ無かったので、カーネギーのこの誘いに応じて、カーネギー・スチールのCEOに就任します。その一方でフリックのボタ山の権利も未だ持っていたわけですので、これは垂直的な統合、ないしは寡占的なディールだと考えることも出来ます。

実際、カーネギー・スチールはフリックがカーネギー・スチールのCEOに就任した後で、どんどんフリックのボタ山の株式を買い上げ、フリックは売却したボタ山の株式から出来たキャッシュでカーネギー・スチールの持ち株比率を上げて行ったわけです。これは極めて近親相姦的な取引だと言えます。

カーネギーは表向きには善良で、誰からも愛されるように振舞っていましたが、フリックは冷徹で、物事に動じない、タフな経営者という外観を持っていました。言い換えれば「Good cop」、「Bad cop」の役割をこの二人が演じたわけです。二人は単にソロバンが立つというだけでなく、最新技術の導入に積極的で、長期ビジョンに立脚した議論が出来るという点でも話が合いました。

1877年に全米でストライキが荒れ狂い、カーネギーは労働組合を支持する立場を表明します。

カーネギーはThe result of labor struggle(労使紛争の結果)というエッセイの中で:

Thou shalt not take thy neighbor’s job.
(隣人の職を、奪ってはいけない)


という考え方を主張します。つまり職は神聖なものだという主張です。フリックはこれに反対し、労働力は単なるコモディティに過ぎないと主張します。彼はストがあると直ちに首謀者の労働者たちを首にし、ハンガリーから労働者を輸入しました。

こうしてカーネギー・スチールはピッツバーグ周辺の製鉄所を次々に買収し、買収後、労働組合を解散してゆきます。そんな中にあってホームステッド製鉄所だけは労働組合がある製鉄所でした。この製鉄所は単に労働組合があるだけでなく、労働者による自治が進んでいる製鉄所であり、経営に関する重要事項から、町内会の事柄まで、全て組合が決める、ある種、コミューン的な製鉄所でした。品質面や競争力でもホームステッドは抜きんでた存在でした。高層ビルや、海軍の軍艦などは全てホームステッドで作られた鋼鉄から作られていたのです。カーネギーが労働組合をしぶしぶみとめたのも、そのような理由によります。

しかし毎年下がる鉄鋼価格のしわよせを受けて、労働者の賃金も低いままに維持され、とうとう1893年にホームステッド製鉄所のジョン・マクラッキ書記はストライキに立ちあがります。

RoweLithoカーネギーはスコットランドに旅行中でしたが、フリックは私立探偵のピンカートン社を起用し、300名の治安維持隊をホームステッドに送り込もうとします。

この治安維持隊のうち、ピンカートンの正社員は40名ほどで、後は中西部の都会の街角でたむろしていた、ならず者たちをかき集めた集団でした。

ピンカートンの治安維持隊は人目を避けるため、ホームステッド製鉄所に隣接した河川をタグボートに曳航されたバージで上陸作戦を試みます。

この作戦に勘付いた労働者たちは鋤や鉄砲を抱えて桟橋に殺到し、そこでピンカートンの一味と激しい撃ち合いに発展します。労働者たちはダイナマイトを満載したトロッコをバージに向けて全速力でぶつけ、バージは炎上します。結局、14時間の銃撃戦の後でピンカートンの治安維持隊は白旗を上げて降参し、労働者たちは彼らをホームステッドの町中で引き回し、ボコボコに殴ります。

Berkman_with_Frick_(1892)この紛争は労働者側の完全な勝利に終わり、フリックは事務所で執務中に刺客から銃撃を受け、首に傷を負いますが一命は取り留めます。

カーネギーはスコットランドにとどまることでこの紛争から距離を置きつつ、フリックのストライキの処置が悪かったことを叱責します。

しかし従業員たちはフリックは勇敢で、身の危険があるときでも逃げなかったけど、カーネギーは偽善者だという印象を持ちます。

結局、後日カーネギーはストに関わった1,800人の労働者を全員解雇し、ホームステッドの労働組合は瓦解します。

フリックは1894年に神経衰弱に陥り、CEOを辞任します。カーネギー・スチールから距離を置いたフリックはボタ山に戻り、1900年にカーネギーに対して提供するコークスの値段を値上げしようとしたときカーネギーはフリックを重役会から追放し、さらにカーネギー・スチールがフリック石炭会社の過半数株式を支配していた関係で、まんまとフリックをフリック石炭会社から追い出すことに成功します。その後、カーネギーはフリックの石炭を市場価格より低い値段で買いはじめ、フリックとカーネギーはそれを巡って法廷で激しく争います。結局この係争ではフリックが勝利します。

カーネギーは単に裕福であっただけでなく、常に人生に対して楽観的で、アメリカン・ドリームを自ら体現することに悦びを感じるタイプの人間でした。

しかし現実には恩師を裏切り、信頼する補佐に責任をなすりつけ、カーネギー・スチールは米国労働史で最も暗い時代を体現してしまいます。

1900年にJPモルガンから買収の提案を受けた時には、モルガンの支配する鉄工所が高コスト体質で、技術も古く、モルガンのかき集めた買収資金は株主に対して高い配当を支払う必要のある高コストの資本であることを見抜き、この敵対的な買収提案を鼻で笑いました。

しかし自己批判の念を拭い切れなかったカーネギーは、ここらへんが潮時だと悟りの境地に達し、4.8億ドルという破格の値段でカーネギー・スチールをJPモルガンに売却し、慈善事業を始めます。

今日、世界の3,000の図書館はカーネギーの寄付によって出来たものです。またカーネギーは教員のための年金基金の設立のタネになる資金を出しました。

下はピッツバーグ美術館にあるカーネギーが注文した壁画ですが、ここにはピッツバーグの製鉄業の姿がユートピア的に描かれています。

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そこでは製鉄所から上がる煤煙ですら、白い美しい煙に美化されています。

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下のパネルで黒い甲冑を身に付けて、天に舞いあがろうとしているのは、カーネギーその人です。

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この作品からも、カーネギーの自分自身を見る目が、世間の彼を見る目と如何にかけ離れていたかが窺い知れます。

1919年に死が迫ったことを悟ったカーネギーは、昔の怨みを水に流すため、フリックに「もう一度会って、仲直りしようじゃないか」と持ちかけます。

その時、フリックは「キミも、僕もどうせ地獄に落ちる運命なんだ。だから今会う必要はない。地獄で会おうぜ」と言ってこの面会を拒否します。