3月31日はイースターでした。

イースターは復活祭と訳されます。

この場合の復活とは、すなわちイエス・キリストが十字架にかけられて殺された三日後に復活したことを指しています。

僕のようなキリスト教の信者ではない外部の人間からすれば(だけどさぁ……何でキリスト様の死んだ日、そしてその三日後に蘇った日が、毎年、コロコロ変わるの?)という素朴な疑問が生じるわけです(笑)

実際、ここ数年のイースターは次のようになっていました:

2008年 3月23日
2009年 4月12日
2010年 4月4日
2011年 4月24日
2012年 4月8日
2013年 3月31日


このように日付が変わる理由は、イエス・キリストが十字架にかけられた日が、ユダヤ教のパスオーバー(Passover=過越の祭り)に関係しているからです。

(れっ? キリスト教の休日なのに、何でユダヤ教が出て来るの?)と、僕などまたまた混乱してしまうわけです。

その説明は、つまりこういう事です。

キリスト教が登場する前は、のちにキリスト教に改宗する「改宗予備軍」は、もともとみんなユダヤ教徒だったのです。


ユダヤ人の一部は現在のエジプトに住んでいたのですが、奴隷のような処遇を受け、苦しんでいました。ユダヤ人はイスラエルに移住することを希望しますが、エジプトのファラオがそれを許しません。

ユダヤ教の神様はそこで十の災いを起こし、ファラオが諦めるように仕向けるわけです。そのひとつが「すべての初子を殺す」という災厄です。ただ、ユダヤ教の子供も死んでしまうといけないので、モーゼに「ユダヤ教の家は戸口に十字の印をつけよ」と指示します。この印がある家は、災厄が素通り(passing over)するわけです。

こうしてユダヤ教徒を除くすべての初子が死んでしまったのを見て、ファラオは諦め、ユダヤ人に、エジプトを去ってもいいと認めます。これがいわゆる「出エジプト記」に至るエピソードなわけですが、ユダヤ教徒にとってパスオーバーは嬉しい日だということは、この説明からもわかると思います。

さて、イエス・キリストはこの祭日のタイミングをわざわざ選んで、当時、ローマ人に支配管理されていたエルサレムに出向くわけです。いわばトラブルメーカーのような行動だから、歓迎されないわけです。そこで捕えられて、十字架にかけられて、殺されてしまうわけです。でもその三日後に奇跡が起き、復活する……だから復活祭というわけです。

もともとユダヤ教では「いつか神様が我々の前に現れる」という事が信じられています。でもユダヤ教では、その神様は現在の時点で、未だ登場していない(笑)

今も、待ち続けている人たちなのです。

ところがユダヤ教を信じる人の間で(ひょっとして…この人こそが神様なんじゃないかなぁ)という目でイエス・キリストを見ていたグループが居るわけです。つまりイエス・キリストの個人的なフォロワーとでも言いますか。

だから十字架にかけられたイエス・キリストが、一度死んだはずなのに、また生き返るなんて、これはもう人間じゃなく、神様だよね? ということで、この時点でイエス・キリストを信じていたフォロワーさん達は、「彼こそが、神様だ!」と思うわけです。

キリスト教が、ユダヤ教と分離したのは、この瞬間です。

別の見方をすれば、キリスト教は、ユダヤ教の中の、一部のセクトに過ぎなかったと形容しても言い過ぎではないと思います。キリスト教徒は、待つことをやめた人たち(=だってイエス・キリストことが神だとわかったのだから)というわけです。

だから聖書を見ると、所謂、旧約聖書と新約聖書に別れていて、旧約聖書はユダヤ教聖書とも言われます。言い換えればキリスト教の聖典とユダヤ教の聖典は80%くらいオーバーラップしているわけです。

新約聖書は、だからキリストが登場して以降の事について書かれているのです。

クリスマスはキリストの誕生日なので、当然、おめでたい日です。でも、キリスト教の信者にとって、復活祭はキリストこそが神様であることの確認が取れた日であり、ユダヤ教からの決別の瞬間でもあります。だからこの日はとても重要な日というわけ。

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