金融関係者にとってニューヨークはロンドンと並び特別な街です。多くの投資家はニューヨーク証券取引所(NYSE)の存在が、ニューヨークをして世界に冠たる金融センターに押し上げたと考えていますが、実際は、逆です。ニューヨークが、金融センターとしての条件を満たしていたからこそ、必然的帰結として、そこにNYSEが生まれたのです。
そこで今日はニューヨークの歴史を振り返る事で、ニューヨークのDNAというものについて考えてみたいと思います。
ニューヨークを最初に発見した西洋人はヘンリー・ハドソンです。ハドソンはイギリス人ですが、大航海時代の当時、海外にどんどん進出していたオランダから雇われて、「大西洋から中国へつながる道」を探し求め、現在のニューヨーク湾に辿りつきます。1609年9月2日のことです。
ハドソンはニューヨーク湾(もちろん、当時は名前すらない湾でした)を一目見て、これは大変な良港だと悟ります。そしてそのまま大きな河川を遡ってゆき、それが中国に繋がっているかどうか探検します。もちろん、この川はアルバニーの先で終わってしまい、中国には繋がっていないことがわかります。後に、この川はハドソン川と名付けられます。

ハドソンがニューヨーク湾のことを「一千の船が安全に停泊できる良港」だと報告したので、オランダはこの土地が植民地進出の有力候補地だという認識を持ちます。
ところで1600年代前半にはオランダ以外からも北米へ移住を試みる集団が相次いで到着します。1620年にメイフラワー号が現在のボストン近郊のプリマスに到着します。メイフラワー号は全長90フィート、全幅26フィート、重量180トンでした。彼らの場合、イギリスから渡航した動機は信仰の自由を求めて新天地にやってきたわけです。
実はイギリスから北米へ渡ったイギリス人は、メイフラワー号が最初ではありません。1619年にはキャプテン・ジョン・スミスがバージニアに到達しています。バージニアは、処女地という意味です。キャプテン・ジョン・スミスは、ディズニーのアニメ『ポカハンタス』に登場しますから(笑)、皆、ご存知だと思います。このバージニアに着いた一行は、宗教上の理由ではなく、金儲けが動機でした。
そこで今日はニューヨークの歴史を振り返る事で、ニューヨークのDNAというものについて考えてみたいと思います。
ニューヨークを最初に発見した西洋人はヘンリー・ハドソンです。ハドソンはイギリス人ですが、大航海時代の当時、海外にどんどん進出していたオランダから雇われて、「大西洋から中国へつながる道」を探し求め、現在のニューヨーク湾に辿りつきます。1609年9月2日のことです。
ハドソンはニューヨーク湾(もちろん、当時は名前すらない湾でした)を一目見て、これは大変な良港だと悟ります。そしてそのまま大きな河川を遡ってゆき、それが中国に繋がっているかどうか探検します。もちろん、この川はアルバニーの先で終わってしまい、中国には繋がっていないことがわかります。後に、この川はハドソン川と名付けられます。

ハドソンがニューヨーク湾のことを「一千の船が安全に停泊できる良港」だと報告したので、オランダはこの土地が植民地進出の有力候補地だという認識を持ちます。
ところで1600年代前半にはオランダ以外からも北米へ移住を試みる集団が相次いで到着します。1620年にメイフラワー号が現在のボストン近郊のプリマスに到着します。メイフラワー号は全長90フィート、全幅26フィート、重量180トンでした。彼らの場合、イギリスから渡航した動機は信仰の自由を求めて新天地にやってきたわけです。
実はイギリスから北米へ渡ったイギリス人は、メイフラワー号が最初ではありません。1619年にはキャプテン・ジョン・スミスがバージニアに到達しています。バージニアは、処女地という意味です。キャプテン・ジョン・スミスは、ディズニーのアニメ『ポカハンタス』に登場しますから(笑)、皆、ご存知だと思います。このバージニアに着いた一行は、宗教上の理由ではなく、金儲けが動機でした。
ハドソンが発見した良港にオランダの船が戻ってきたのは1624年でした。実際には船に乗り組んでいたのはベルギー辺りのユグノーが多かったのだそうです。全部で110人、30世帯だったと言われています。オランダは当時、東インド会社を南アジアに展開しており、既に巨大企業に成長していました。東インド会社での成功を、米州でも繰り返したいという願いから、その子会社として西インド会社が設立されます。つまりニューヨークは西インド会社の米州本社を置く場所として期待されたのです。
オランダ人はニューヨークの辺りに住みついていた原住民、つまりインディアンから原住民たちが「マナハタ(=丘の島)」と呼んでいた島の南端を60ギルダー(約600ドル)で買い取ります。これがこんにちのマンハッタン島です。そして島の南端に石組みの城壁を作り(=これは今日、スタッテン・アイランド・フェリーの乗り場近くにある砦です)、その回りに掘立小屋を建てて住みました。インディアンたちの利用した小道は「ブリーダーウェイ」と呼ばれ、それが後に英語的な「ブロードウェイ」になったわけです。こうしてニュー・アムステルダムが始まるわけです。
マンハッタンへの入植の直ぐ後に他の入植地も出来始めます。ブルックリンはオランダの街の名前を取った入植地です。またマンハッタンのずっと北の方でプランテーションを経営していたジョナス・ブロンクの居場所はブロンクスと呼ばれるようになりました。
マンハッタン島に最初の奴隷がもたらされるのはユグノーたちが入植した僅か2年後の1626年でした。アンゴラから11人の黒人奴隷が持って来られたわけです。ここで覚えておくべき事は、オランダは植民地経営、つまりビジネスとしてマンハッタン開発に着手したわけで、国家建設とか、崇高な精神で入植したのではないという点です。実際、当時のオランダは、最も手ごわいビジネスの「やり手」だったのです。オランダが宗教に無関心だったことは、入植して17年もマンハッタンには教会すら無かったことからもわかります。
1643年頃にはマンハッタンの風紀が乱れ、植民地として全然儲からないばかりかお荷物的な存在になってしまったので、西インド会社はカリブ海のキュラソー支店長を務めていたピーター・スタイビサントをマンハッタンに転勤させます。つまり植民地の「テコ入れ」が行われたわけです。
ピーター・スタイビサントは元兵士で、片足が義足であり、鋼鉄の意志を持ち、短気で、ピューリタン的な価値観を持つ、ひとことで言えば「怖い上司」でした。

着任早々「日曜日は禁酒日とする」とか、無粋な発令をし、高飛車な植民地運営にマンハッタンの入植者たちから不満の声が上がります。しかし彼は僅か5年でマンハッタンをシャキッとした植民地に立て直します。その頃までにはマンハッタンの人口は3000人に膨れ上がり、300の家屋が並んでいました。スタイビサントは外敵、とりわけ英国が攻めて来た時のために現在のウォール街に高い壁を巡らし、防御を固めます。
マンハッタンが植民地として立ち直りはじめると人手不足が起こり、植民地はフランス人、ドイツ人、スペイン人、ポルトガル人なども受け入れるようになりました。1654年にブラジルのスペイン人居留地におけるユダヤ人迫害事件が起こると、ブラジルに住んでいたユダヤ人がマンハッタンへの移住を始めます。これがマンハッタンにユダヤ人が到着した最初の事例です。
ピーター・スタイビサントはユダヤ人が嫌いだったので、直ちにユダヤ人を追い出すべく、「マンハッタン植民地はユダヤ人を許さない」ということを西インド会社の定款に謳って欲しいとオランダ本社にリクエストします。(この時点でマンハッタンは未だ西インド会社の社有物だったことを思い出して下さい)
ところがオランダ本社はスタイビサントに対して「お前はビジネスを切り盛りしているのであって、政治を行っているのではない。ビジネスの観点からは、楽市楽座の方が良いに決まっている」と、この嘆願を却下します。どの人種も受け入れるというニューヨークのプラグマチックな考え方が決定的になったのは、この瞬間です。
しかしオランダ本社にとってニューヨークは、ある程度、儲かってはいるけれど、「ホームラン」ではありませんでした。
アメリカの東海岸の地図を北から南に思い浮かべて頂ければ、ボストンはイギリスが、マンハッタンはオランダが、そしてバージニアはイギリスが支配していました。するとイギリスの観点からすれば自分の2つの入植地の中心にオランダが楔を打ち込んでいるカタチになっているわけです。そこでマンハッタンを力ずくで盗る計画を立てます。
1664年8月27日、4隻のイギリスの軍艦がマンハッタン沖に姿を現します。ちょうど日本の「黒船来航」みたいな緊迫状態になるわけです。ピーター・スタイビサントは砦に立て篭もり、決戦する決意を固めますが、マンハッタンの住民は「大砲を打たれたら、マンハッタンが火の海になる。それでは商売が出来ない。ここは白旗を上げて降参してください」という嘆願書を出します。スタイビサントは誰も自分に続いてイギリスと戦う者が居ないので、やむなくイギリスを受け入れ、自分はグリニッジ・ビレッジに隠居します。
イギリスは1664年8月29日にニュー・アムステルダムをニューヨークと改名します。当時イギリスは海洋国家としてどんどん成長していたので、イギリスに接収された後のニューヨークは三角貿易の中継地として急発展します。ニューヨークからイギリスへは木材や穀物が輸出され、イギリスからアメリカには製品が輸出されます。またアフリカからニューヨークへは奴隷が輸出されるという具合です。ニューヨークが発展するとともにマンハッタンは手狭となり、ウォール街にあった高い壁は取り壊されます。
1756年にイギリスがフランスに戦争を宣言するとニューヨークは物資の補給基地として戦争景気に沸きます。しかし戦争が終わると、今度は戦争費用の回収のためイギリスがニューヨークへの課税を強化すると宣言します。ニューヨークでは暴動が起き、これが後の独立戦争への下地を作るわけです。
1773年6月に西インド諸島のニーヴィス島からアレキサンダー・ハミルトンという若者がニューヨークに到着します。彼は奨学金を得てキングズ・カレッジ(今のコロンビア大学)で学ぶために来たわけです。私生児で、貿易会社の番頭をしていたハミルトンはキングス・カレッジ2年生(17歳)の時、イギリスの植民地から独立すべきだという扇動的なパンフレットをばら撒き、演説します。
1775年4月になるとイギリスがニューヨークに攻めて来るという噂が走り、ニューヨーク市民の8割がマンハッタン島から避難します。
1776年、アメリカは独立宣言を採択し、イギリスはその独立を阻止するために艦隊をニューヨークへ送ります。アメリカはジョージ・ワシントンを総司令官としてニューヨークで決戦を挑みますが、イギリスに押しまくられ、北へ逃げます。そしてようやく1783年にイギリスを追い払うことに成功します。ハミルトンはジョージ・ワシントンの補佐としてワシントンの手紙の殆どを代筆します。
1789年、ジョージ・ワシントンは現在のNYSEのすぐ北のフェデラル・ホールで初代大統領に就任し、ハミルトンは33歳の若さで自分が新設した財務省の長官に就任します。この当時、アメリカの首都はニューヨークでした。

新生アメリカの最初の困難は独立戦争の戦費負担で実質的に破たん状態になっていた各州の債務をどうリストラクチャリングするかという問題でした。アレキサンダー・ハミルトンは米国政府が一括して州債の面倒を見ることを主張します。これは今日議論されているEUによるユーロボンド発行と同じ発想です。ハミルトンはアメリカ政府としてトレジャリー・ボンドを8000万ドル相当発行し、そのキャッシュで州の債務を全部払ってしまいます。この8000万ドルのトレジャリー・ボンドの発行はニューヨークにアメリカ中のお金が流れ込む原因を作り、トレジャリー・ボンドの取引が自然発生的にフェデラル・ホールに近いスズカケの木の下で行われるようになりました。つまり青空市場です。これがニューヨーク証券取引所の始まりです。
同じジョージ・ワシントン政権の閣僚であったトーマス・ジェファーソンとの取引で、アレキサンダー・ハミルトンはアメリカの首都をニューヨークからワシントンDCに移すことに合意します。ジェファーソンは農本民主主義を標榜しており、自分の農園が近いワシントンDCにアメリカの首都を置きたがりました。実際、当時の米国のGNPの90%は農業でした。これに対してアレキサンダー・ハミルトンはアメリカの将来は工業、ならびに金融にあると考え、ニューヨークを政治の中心から切り離すことは、むしろニューヨークの自由な発展のために良いと考えたわけです。
以上をまとめると、ニューヨークはその成立当初から西インド会社の出張所として、ビジネスを取り行う場所というアイデンティティを持っていました。多民族、多宗教都市として、よそ者に寛容な風土が出来た背景には、西インド会社の金儲け最優先主義が強い影響を与えたのです。ニューヨークの住民たちは、イギリスの黒船が現れると、コロッとイギリス側に寝返り、主義主張より商売を優先する姿勢を再び明快にしました。私生児で、少年の頃から貿易会社の番頭としてソロバンを預かっていたアレキサンダー・ハミルトンはニューヨークに来る事で、アメリカ政府を財政面から支えた、これまでにニューヨークに登場したあらゆるバンカーの中で最も偉大な銀行家として歴史に名前を残しました。ニューヨークが「成り上がり」を目指す者たちの究極の行き先だという評判は、既にアレキサンダー・ハミルトンの頃までに確立されていたのです。
(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack)
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オランダ人はニューヨークの辺りに住みついていた原住民、つまりインディアンから原住民たちが「マナハタ(=丘の島)」と呼んでいた島の南端を60ギルダー(約600ドル)で買い取ります。これがこんにちのマンハッタン島です。そして島の南端に石組みの城壁を作り(=これは今日、スタッテン・アイランド・フェリーの乗り場近くにある砦です)、その回りに掘立小屋を建てて住みました。インディアンたちの利用した小道は「ブリーダーウェイ」と呼ばれ、それが後に英語的な「ブロードウェイ」になったわけです。こうしてニュー・アムステルダムが始まるわけです。
マンハッタンへの入植の直ぐ後に他の入植地も出来始めます。ブルックリンはオランダの街の名前を取った入植地です。またマンハッタンのずっと北の方でプランテーションを経営していたジョナス・ブロンクの居場所はブロンクスと呼ばれるようになりました。
マンハッタン島に最初の奴隷がもたらされるのはユグノーたちが入植した僅か2年後の1626年でした。アンゴラから11人の黒人奴隷が持って来られたわけです。ここで覚えておくべき事は、オランダは植民地経営、つまりビジネスとしてマンハッタン開発に着手したわけで、国家建設とか、崇高な精神で入植したのではないという点です。実際、当時のオランダは、最も手ごわいビジネスの「やり手」だったのです。オランダが宗教に無関心だったことは、入植して17年もマンハッタンには教会すら無かったことからもわかります。
1643年頃にはマンハッタンの風紀が乱れ、植民地として全然儲からないばかりかお荷物的な存在になってしまったので、西インド会社はカリブ海のキュラソー支店長を務めていたピーター・スタイビサントをマンハッタンに転勤させます。つまり植民地の「テコ入れ」が行われたわけです。
ピーター・スタイビサントは元兵士で、片足が義足であり、鋼鉄の意志を持ち、短気で、ピューリタン的な価値観を持つ、ひとことで言えば「怖い上司」でした。

着任早々「日曜日は禁酒日とする」とか、無粋な発令をし、高飛車な植民地運営にマンハッタンの入植者たちから不満の声が上がります。しかし彼は僅か5年でマンハッタンをシャキッとした植民地に立て直します。その頃までにはマンハッタンの人口は3000人に膨れ上がり、300の家屋が並んでいました。スタイビサントは外敵、とりわけ英国が攻めて来た時のために現在のウォール街に高い壁を巡らし、防御を固めます。
マンハッタンが植民地として立ち直りはじめると人手不足が起こり、植民地はフランス人、ドイツ人、スペイン人、ポルトガル人なども受け入れるようになりました。1654年にブラジルのスペイン人居留地におけるユダヤ人迫害事件が起こると、ブラジルに住んでいたユダヤ人がマンハッタンへの移住を始めます。これがマンハッタンにユダヤ人が到着した最初の事例です。
ピーター・スタイビサントはユダヤ人が嫌いだったので、直ちにユダヤ人を追い出すべく、「マンハッタン植民地はユダヤ人を許さない」ということを西インド会社の定款に謳って欲しいとオランダ本社にリクエストします。(この時点でマンハッタンは未だ西インド会社の社有物だったことを思い出して下さい)
ところがオランダ本社はスタイビサントに対して「お前はビジネスを切り盛りしているのであって、政治を行っているのではない。ビジネスの観点からは、楽市楽座の方が良いに決まっている」と、この嘆願を却下します。どの人種も受け入れるというニューヨークのプラグマチックな考え方が決定的になったのは、この瞬間です。
しかしオランダ本社にとってニューヨークは、ある程度、儲かってはいるけれど、「ホームラン」ではありませんでした。
アメリカの東海岸の地図を北から南に思い浮かべて頂ければ、ボストンはイギリスが、マンハッタンはオランダが、そしてバージニアはイギリスが支配していました。するとイギリスの観点からすれば自分の2つの入植地の中心にオランダが楔を打ち込んでいるカタチになっているわけです。そこでマンハッタンを力ずくで盗る計画を立てます。
1664年8月27日、4隻のイギリスの軍艦がマンハッタン沖に姿を現します。ちょうど日本の「黒船来航」みたいな緊迫状態になるわけです。ピーター・スタイビサントは砦に立て篭もり、決戦する決意を固めますが、マンハッタンの住民は「大砲を打たれたら、マンハッタンが火の海になる。それでは商売が出来ない。ここは白旗を上げて降参してください」という嘆願書を出します。スタイビサントは誰も自分に続いてイギリスと戦う者が居ないので、やむなくイギリスを受け入れ、自分はグリニッジ・ビレッジに隠居します。
イギリスは1664年8月29日にニュー・アムステルダムをニューヨークと改名します。当時イギリスは海洋国家としてどんどん成長していたので、イギリスに接収された後のニューヨークは三角貿易の中継地として急発展します。ニューヨークからイギリスへは木材や穀物が輸出され、イギリスからアメリカには製品が輸出されます。またアフリカからニューヨークへは奴隷が輸出されるという具合です。ニューヨークが発展するとともにマンハッタンは手狭となり、ウォール街にあった高い壁は取り壊されます。
1756年にイギリスがフランスに戦争を宣言するとニューヨークは物資の補給基地として戦争景気に沸きます。しかし戦争が終わると、今度は戦争費用の回収のためイギリスがニューヨークへの課税を強化すると宣言します。ニューヨークでは暴動が起き、これが後の独立戦争への下地を作るわけです。
1773年6月に西インド諸島のニーヴィス島からアレキサンダー・ハミルトンという若者がニューヨークに到着します。彼は奨学金を得てキングズ・カレッジ(今のコロンビア大学)で学ぶために来たわけです。私生児で、貿易会社の番頭をしていたハミルトンはキングス・カレッジ2年生(17歳)の時、イギリスの植民地から独立すべきだという扇動的なパンフレットをばら撒き、演説します。
1775年4月になるとイギリスがニューヨークに攻めて来るという噂が走り、ニューヨーク市民の8割がマンハッタン島から避難します。
1776年、アメリカは独立宣言を採択し、イギリスはその独立を阻止するために艦隊をニューヨークへ送ります。アメリカはジョージ・ワシントンを総司令官としてニューヨークで決戦を挑みますが、イギリスに押しまくられ、北へ逃げます。そしてようやく1783年にイギリスを追い払うことに成功します。ハミルトンはジョージ・ワシントンの補佐としてワシントンの手紙の殆どを代筆します。
1789年、ジョージ・ワシントンは現在のNYSEのすぐ北のフェデラル・ホールで初代大統領に就任し、ハミルトンは33歳の若さで自分が新設した財務省の長官に就任します。この当時、アメリカの首都はニューヨークでした。

新生アメリカの最初の困難は独立戦争の戦費負担で実質的に破たん状態になっていた各州の債務をどうリストラクチャリングするかという問題でした。アレキサンダー・ハミルトンは米国政府が一括して州債の面倒を見ることを主張します。これは今日議論されているEUによるユーロボンド発行と同じ発想です。ハミルトンはアメリカ政府としてトレジャリー・ボンドを8000万ドル相当発行し、そのキャッシュで州の債務を全部払ってしまいます。この8000万ドルのトレジャリー・ボンドの発行はニューヨークにアメリカ中のお金が流れ込む原因を作り、トレジャリー・ボンドの取引が自然発生的にフェデラル・ホールに近いスズカケの木の下で行われるようになりました。つまり青空市場です。これがニューヨーク証券取引所の始まりです。
同じジョージ・ワシントン政権の閣僚であったトーマス・ジェファーソンとの取引で、アレキサンダー・ハミルトンはアメリカの首都をニューヨークからワシントンDCに移すことに合意します。ジェファーソンは農本民主主義を標榜しており、自分の農園が近いワシントンDCにアメリカの首都を置きたがりました。実際、当時の米国のGNPの90%は農業でした。これに対してアレキサンダー・ハミルトンはアメリカの将来は工業、ならびに金融にあると考え、ニューヨークを政治の中心から切り離すことは、むしろニューヨークの自由な発展のために良いと考えたわけです。
以上をまとめると、ニューヨークはその成立当初から西インド会社の出張所として、ビジネスを取り行う場所というアイデンティティを持っていました。多民族、多宗教都市として、よそ者に寛容な風土が出来た背景には、西インド会社の金儲け最優先主義が強い影響を与えたのです。ニューヨークの住民たちは、イギリスの黒船が現れると、コロッとイギリス側に寝返り、主義主張より商売を優先する姿勢を再び明快にしました。私生児で、少年の頃から貿易会社の番頭としてソロバンを預かっていたアレキサンダー・ハミルトンはニューヨークに来る事で、アメリカ政府を財政面から支えた、これまでにニューヨークに登場したあらゆるバンカーの中で最も偉大な銀行家として歴史に名前を残しました。ニューヨークが「成り上がり」を目指す者たちの究極の行き先だという評判は、既にアレキサンダー・ハミルトンの頃までに確立されていたのです。
(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack)
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