サンフランシスコという町の性格を決定付けたのは、政府の方針でも、国家間のせめぎ合いでも、宗教でもありません。個人の欲望……これこそが決定的な要因であり、それは今日も変わっていません。
1848年1月24日にジェームズ・マーシャルという大工がたまたまカリフォルニアの川で金塊を発見するまで、この広大な土地には白人は1万人ほどしか住んでいませんでした。もちろん先住民であるメキシコ人のコミュニティはあったわけですけど、それが金の発見で僅か数年間の間に東からの白人の流入で圧倒されてしまいます。
1848年12月にジェームズ・ポーク大統領が「カリフォルニアで金が発見された」と正式に発表します。
当時、カリフォルニアはアメリカの中心だった東海岸から最も遠い位置にある辺境の地でした。ちょうどシベリアのような感覚です。
過疎地で、「誰にも所有されていない」広大な土地があり、そこに「金が出た!」ということで、早い者勝ちの先を争う冒険者たちが、一斉にカリフォルニアを目指したのです。

実際にはその土地の多くはメキシコ人がずっと住み着いていたので、「誰にも所有されていない」というのは白人の勝手な解釈です。でも1848年の金発見の僅か1年前にメキシコはアメリカとの戦争に負け、カリフォルニアを譲り渡してしまいます。
アメリカ政府はカリフォルニアという領地を分捕ったものの、それを統治する役所などは、未だ当然、未整備でした。
普通、金塊が発見されると、その国の王様や皇帝が「それは朕のモノである!」と宣言し、発見者はすぐに国家にそれを掠め取られてしまうわけです。世界の他の地域でゴールドラッシュが起こらなかったのは、そのためです。
ところがアメリカの場合、政府が若かったし、カリフォルニアはシベリアみたいな辺境の地だったし、メキシコから併合したばかりのドサクサに紛れていたというラッキー(笑)な条件が重なったので、「何でもアリだっ!」という連中が、怒涛のようにカリフォルニアを目指したわけです。勿論、ひとつの橋も、小学校も、病院もありませんでした。
人々は、誰かに命令されてカリフォルニアに移住させられたのではなく、ひと山当てるために、自発的にリスク・テーキングしたのです。結局、金塊発見以降の10年間で25万人がカリフォルニアに移住しました。その全員がリスク・テーカーだったということは深い意味を持ちます。宗教や政治的信条ではなく、ゼニ欲のみに突き動かされて、人々の大移動が、極めて短期間のうちに起こったのです。
1848年1月24日にジェームズ・マーシャルという大工がたまたまカリフォルニアの川で金塊を発見するまで、この広大な土地には白人は1万人ほどしか住んでいませんでした。もちろん先住民であるメキシコ人のコミュニティはあったわけですけど、それが金の発見で僅か数年間の間に東からの白人の流入で圧倒されてしまいます。
1848年12月にジェームズ・ポーク大統領が「カリフォルニアで金が発見された」と正式に発表します。
当時、カリフォルニアはアメリカの中心だった東海岸から最も遠い位置にある辺境の地でした。ちょうどシベリアのような感覚です。
過疎地で、「誰にも所有されていない」広大な土地があり、そこに「金が出た!」ということで、早い者勝ちの先を争う冒険者たちが、一斉にカリフォルニアを目指したのです。

実際にはその土地の多くはメキシコ人がずっと住み着いていたので、「誰にも所有されていない」というのは白人の勝手な解釈です。でも1848年の金発見の僅か1年前にメキシコはアメリカとの戦争に負け、カリフォルニアを譲り渡してしまいます。
アメリカ政府はカリフォルニアという領地を分捕ったものの、それを統治する役所などは、未だ当然、未整備でした。
普通、金塊が発見されると、その国の王様や皇帝が「それは朕のモノである!」と宣言し、発見者はすぐに国家にそれを掠め取られてしまうわけです。世界の他の地域でゴールドラッシュが起こらなかったのは、そのためです。
ところがアメリカの場合、政府が若かったし、カリフォルニアはシベリアみたいな辺境の地だったし、メキシコから併合したばかりのドサクサに紛れていたというラッキー(笑)な条件が重なったので、「何でもアリだっ!」という連中が、怒涛のようにカリフォルニアを目指したわけです。勿論、ひとつの橋も、小学校も、病院もありませんでした。
人々は、誰かに命令されてカリフォルニアに移住させられたのではなく、ひと山当てるために、自発的にリスク・テーキングしたのです。結局、金塊発見以降の10年間で25万人がカリフォルニアに移住しました。その全員がリスク・テーカーだったということは深い意味を持ちます。宗教や政治的信条ではなく、ゼニ欲のみに突き動かされて、人々の大移動が、極めて短期間のうちに起こったのです。
海路でカリフォルニアへ行こうとすると5カ月かかりました。そこで多くの人々は陸路でカリフォルニアを目指しました。

アメリカ各地の新聞は、毎日のようにカリフォルニアに向けて出発する冒険者たちに関する記事を掲載しました。早い者勝ちのこの競争に参加した人たちを1849年の年号を取ってフォーティー・ナイナーズ(49’ers)と呼びます。
1849年の4月になり、地面に草が生え、幌馬車のワゴンが通れるようになると、シエラ・ネバダ山脈越えのために待機していた移民たちは一斉にベース・キャンプのあるミズーリを出発しました。
2万5千人もの人たちがほぼ同じ時期にシエラ・ネバダ山脈越えを試みたのです。このミズーリから西海岸に至るルートはオレゴン・トレイルと呼ばれています。皆が不衛生な環境でテント生活をしていたのでコレラが発生し1500人が死亡しました。
こうして苦労の挙句、冒険者たちはカリフォルニアに着くわけです。しかし着いてみると、自分と同じような一攫千金を目指す喰い詰めた連中が毎日どんどん到着します。だから骨休めする暇もなく、すぐ重労働を始めたのです。
当時の金価格は1オンス当り16ドル前後だったので、1日1オンス程度の金を発見しないとくたびれ儲けでした。努力が報われない山師の方が一握りのラッキーな人たちより遥かに多かったのです。それでも時々、大きな金塊を発見する者が出たので、この偶然性が人々を、何かに憑かれたかのように金に走らせました。
金の採掘は農耕とは違います。金を掘り尽くしたら、すぐ次の場所へ移ってゆかねばならないので、短期思考が人々の生活態度として定着しました。アメリカ政府は1850年9月9日、カリフォルニアを31番目の州に認定しました。当時のマイニング・キャンプの名前は
など、いかにも粗野な山師たちが付けそうな軽い名前がつけられました。
ボストンなどの由緒正しい街に、そんな名前がつけられることは想像すらできない筈です。この軽いネーミングは今でもシリコンバレーの地名や会社名に「ヤッホー!(Yahoo)」とか「インフィニット・ループ」などの気さくな名前が当然の如く付けられる慣習として残っています。
1851年頃、中国から最初の労働者が到着しました。中国人たちは早くからその勤勉さを発揮し、金山や鉄道建設で重要な労働力となります。
一方、酒場、女郎屋、飛脚、衣料など、鉱夫に対する色々なサービス・ビジネスが興ります。結局、山師をやるより、それらのサービスを提供した者の方が大きな富を築きました。有名な企業としてはジーンズのリーバイスや銀行のウエルズファーゴが挙げられます。
1849年、サンフランシスコはテントの町でした。しかし1853年頃までには600軒の石造りの家が建ち、12の新聞が創刊され、9の保険会社が出来ました。つまりものすごく短期間の間に町としての体裁を整えて行ったのです。
サンフランシスコはゴールドラッシュの起きている地域で最も良港であっただけでなくサクラメント川の河口にも位置し、運輸業の一大中継地点となりました。その地の利が急発展の最大の要因です。サンフランシスコは当初から極めてコスモポリタン的な街であり、また世界から最もひどい悪党たちが集結してきたせいで、無法地帯で、モラルに欠いた場所になりました。
1862年大陸横断鉄道法案が通過しレランド・スタンフォード、コーリス・ハンチントン、チャールズ・クロッカー、マーク・ホプキンスという4人の富豪が資金を集めて作ったセントラル・パシフィック鉄道がシエラ・ネバダ山脈を越えてアメリカの東と連結する鉄道の建設が始まります。このとき数千人の中国人苦力(クーリー)が輸入され、最終的には鉄道建設で働く中国人は1万5千人に膨れ上がりました。

今日、サンフランシスコなどにある中国人コミュニティの核となる人々が、彼らなのです。大陸横断鉄道は1869年に開通します。

まとめると、サンフランシスコという街は冒険、物欲、投機、などの結果として極めて無秩序に立ち上がった街であり、人間の最も醜い欲望が渦巻いた場所でした。
その半面、そこの住人は独立心、好奇心が強く、政府や他人の力を頼らず、自分で自分の運命を切り拓くバイタリティを持っていたわけです。これがサンフランシスコのDNAであり、それは農耕民族の日本人にはなかなか真似しにくい気風だと言えます。
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ニューヨークのDNA

アメリカ各地の新聞は、毎日のようにカリフォルニアに向けて出発する冒険者たちに関する記事を掲載しました。早い者勝ちのこの競争に参加した人たちを1849年の年号を取ってフォーティー・ナイナーズ(49’ers)と呼びます。
1849年の4月になり、地面に草が生え、幌馬車のワゴンが通れるようになると、シエラ・ネバダ山脈越えのために待機していた移民たちは一斉にベース・キャンプのあるミズーリを出発しました。
2万5千人もの人たちがほぼ同じ時期にシエラ・ネバダ山脈越えを試みたのです。このミズーリから西海岸に至るルートはオレゴン・トレイルと呼ばれています。皆が不衛生な環境でテント生活をしていたのでコレラが発生し1500人が死亡しました。
こうして苦労の挙句、冒険者たちはカリフォルニアに着くわけです。しかし着いてみると、自分と同じような一攫千金を目指す喰い詰めた連中が毎日どんどん到着します。だから骨休めする暇もなく、すぐ重労働を始めたのです。
当時の金価格は1オンス当り16ドル前後だったので、1日1オンス程度の金を発見しないとくたびれ儲けでした。努力が報われない山師の方が一握りのラッキーな人たちより遥かに多かったのです。それでも時々、大きな金塊を発見する者が出たので、この偶然性が人々を、何かに憑かれたかのように金に走らせました。
金の採掘は農耕とは違います。金を掘り尽くしたら、すぐ次の場所へ移ってゆかねばならないので、短期思考が人々の生活態度として定着しました。アメリカ政府は1850年9月9日、カリフォルニアを31番目の州に認定しました。当時のマイニング・キャンプの名前は
You bet(もちろん)
Red Dog(赤いイヌ)
Blue Tent(青いテント)
Lady’s crevasse (女性の割れ目)
など、いかにも粗野な山師たちが付けそうな軽い名前がつけられました。
ボストンなどの由緒正しい街に、そんな名前がつけられることは想像すらできない筈です。この軽いネーミングは今でもシリコンバレーの地名や会社名に「ヤッホー!(Yahoo)」とか「インフィニット・ループ」などの気さくな名前が当然の如く付けられる慣習として残っています。
1851年頃、中国から最初の労働者が到着しました。中国人たちは早くからその勤勉さを発揮し、金山や鉄道建設で重要な労働力となります。
一方、酒場、女郎屋、飛脚、衣料など、鉱夫に対する色々なサービス・ビジネスが興ります。結局、山師をやるより、それらのサービスを提供した者の方が大きな富を築きました。有名な企業としてはジーンズのリーバイスや銀行のウエルズファーゴが挙げられます。
1849年、サンフランシスコはテントの町でした。しかし1853年頃までには600軒の石造りの家が建ち、12の新聞が創刊され、9の保険会社が出来ました。つまりものすごく短期間の間に町としての体裁を整えて行ったのです。
サンフランシスコはゴールドラッシュの起きている地域で最も良港であっただけでなくサクラメント川の河口にも位置し、運輸業の一大中継地点となりました。その地の利が急発展の最大の要因です。サンフランシスコは当初から極めてコスモポリタン的な街であり、また世界から最もひどい悪党たちが集結してきたせいで、無法地帯で、モラルに欠いた場所になりました。
1862年大陸横断鉄道法案が通過しレランド・スタンフォード、コーリス・ハンチントン、チャールズ・クロッカー、マーク・ホプキンスという4人の富豪が資金を集めて作ったセントラル・パシフィック鉄道がシエラ・ネバダ山脈を越えてアメリカの東と連結する鉄道の建設が始まります。このとき数千人の中国人苦力(クーリー)が輸入され、最終的には鉄道建設で働く中国人は1万5千人に膨れ上がりました。

今日、サンフランシスコなどにある中国人コミュニティの核となる人々が、彼らなのです。大陸横断鉄道は1869年に開通します。

まとめると、サンフランシスコという街は冒険、物欲、投機、などの結果として極めて無秩序に立ち上がった街であり、人間の最も醜い欲望が渦巻いた場所でした。
その半面、そこの住人は独立心、好奇心が強く、政府や他人の力を頼らず、自分で自分の運命を切り拓くバイタリティを持っていたわけです。これがサンフランシスコのDNAであり、それは農耕民族の日本人にはなかなか真似しにくい気風だと言えます。
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