今でこそイギリスと聞いてダイナミックで先端的な経済を思い浮かべる人は居ませんけど、昔は英国が技術革新の面でも、ビジネスの進め方の上でも、政治や思想の面でも、ダントツに世界をリードした時期があったのです。
今日はそんなイギリスの黄金時代を振り返る事で、なぜ大英帝国はこれほど栄えたのかを考えてみたいと思います。
1625年に王座についたチャールズ一世はフランス生まれのカトリック教徒、アンリエット・マリーを王妃に迎え、フランス型の絶対君主制に憧れます。
でも奥さんがフランス人だからといって、すぐに英国がフランスの栄華の真似をすることはできません。なぜなら当時の経済は大部分、農業に拠っていたし、その生産は土地と人口の多寡により決まってしまうからです。因みに当時のフランスの人口は約1900万人、一方のイギリスは500万人です。
チャールズ一世は議会の承認なく関税を取り立て、「船舶税」と言われる、船乗りに対する労働提供を強要し、公債を発行しようとします。公債を「買わない」と拒否したものは、徴兵制によって無理矢理兵士にさせられました。
そのような努力にも関わらず、公債の消化がはかばかしくなかったので、チャールズ一世は1628年に第三議会を招集し、議員たちを叱り飛ばします。これに対し、議員たちは「権利請願」を提出します。これ以降、議会とチャールズ一世の間では長年に渡って対立が続き、1642年に議会の仕立てた軍隊とチェールズ一世の軍隊が衝突し、イギリスは内戦状態に入ります。
オリバー・クロムウェルはジェントルマンの出身で、ケンブリッジ市から代議士としてロンドンにやってきますが、新模範軍という騎兵隊を組織し、王党軍を破ってしまいます。クロムウェルはチャールズ一世を捕え、ホワイトホールに設けられた青空公開処刑場で国王の首を刎ねてしまいます。これ以降、議会の権力は増し、国王ですら、議会の声に逆らって勝手な真似はできなくなります。
さて、イギリスには地表に近いところに豊富な石炭がありました。石炭は同じ目方でも木より3倍の火力を提供します。これに気が付いた人々は世界で最初に石炭を日常生活に活用することを始めました。
石炭は炭田が消費地にどれだけ近いかで、そのコストが決定します。幸い、イギリスの場合、石炭が消費地に極めて近かったです。また炭田が海の近くにあったので、巨大消費地であるロンドンに石炭を簡単に運ぶ事が出来ました。
ところが問題が生じます。イギリスは雨が多いので、石炭を掘った穴に水が溜まり、それを汲み出すのがやっかいだという点です。この水を汲み出すため、採れたばかりの石炭を燃やし、その蒸気でポンプを動かす、蒸気機関ポンプを1712年にトーマス・ニューコメンが発明しました。この機械は、あくまでも炭鉱の中に据え置きされる、単一目的の装置でした。

イギリスは国王や教会からの影響力に対して議会が抑止力を提供した関係で、科学研究は教会や国家からの弾圧の対象とはなりませんでした。(これが、簡単な事のようで、実際はとても難しいです)
その自由な空気の下で、アイザック・ニュートンなどの天才が、どんどん研究をすすめてゆきました。人々はコーヒーハウスで新しい発明のアイデアを競い、あらゆる階層の人たちが、自由に意見交換できる雰囲気が醸成されました。そこでとりわけ重宝されたのは、すぐビジネスにつなげることができる実践的知識です。こうして工業的啓蒙がイギリスで盛んになりました。
例えばウエスト・ミッドランドのルナー・ソサエティは、名前の示す通り、満月の夜に集会を開きました。チャールズ・ダーウィンのお祖父さんにあたるエラスムス・ダーウィンはその中心的メンバーで、いろいろなアイデアを出しています。自動車の概念図を最初にしたためたのは、エラスムス・ダーウィンです。1760年頃、バーミンガムのソーホーにあるマシュー・ボールトンの工場がジェームズ・ワットのデザインした内燃機関を生産しました。

その頃、フランスはルイ14世の絶対君主制度でした。国王の頭を痛めていた問題のひとつが、人口が急増したパリで、どうやって水を運ぶか? ということです。そこでフランス政府は1779年にバーミンガムから蒸気機関を先ず輸入し、セーヌ川河畔にそれをしつらえ、そのすぐ横に、それをもっと大きなスケールでコピーするプロジェクトを始めます。この試みにはペリエ兄弟などの優秀なエンジニアや実業家たちが進んで政府の要請に応えました。
フランス政府は科学アカデミーに官主導の研究開発機関を設け、そこでは、まず世界から最新のテクノロジーを集め、それを分解、研究し、その詳細を報告書にして政府に提出しました。しかし、お役所仕事はのんびりしていたので、この作業に100年近くかかってしまいました。フランス政府は無秩序な科学の進歩や発明は非効率だと考え、政府主導で、秩序だった開発を指導することを目指したのです。しかしこのお節介は、結果としてイノベーションを遅らせてしまいました。
フランスの実業家は、行政の介入に嫌気が差し、技術革新を追求する熱意や、利益の極大化を目指す動機付けを悉く失ってしまったのです。(政府の肝いりで「日本のシリコンバレーを創ろう!」式のイニシアチブを提唱することが、如何に無意味か、この例は示しています)
さらにフランスの貴族は、商業に対して殆ど関心を示しませんでした。強い陸軍により領土を拡張し、そこから上がる作物で経済力を増すと言う、リニアー(延長線上)な発想しか出来なかったのです。
今日はそんなイギリスの黄金時代を振り返る事で、なぜ大英帝国はこれほど栄えたのかを考えてみたいと思います。
1625年に王座についたチャールズ一世はフランス生まれのカトリック教徒、アンリエット・マリーを王妃に迎え、フランス型の絶対君主制に憧れます。
でも奥さんがフランス人だからといって、すぐに英国がフランスの栄華の真似をすることはできません。なぜなら当時の経済は大部分、農業に拠っていたし、その生産は土地と人口の多寡により決まってしまうからです。因みに当時のフランスの人口は約1900万人、一方のイギリスは500万人です。
チャールズ一世は議会の承認なく関税を取り立て、「船舶税」と言われる、船乗りに対する労働提供を強要し、公債を発行しようとします。公債を「買わない」と拒否したものは、徴兵制によって無理矢理兵士にさせられました。
そのような努力にも関わらず、公債の消化がはかばかしくなかったので、チャールズ一世は1628年に第三議会を招集し、議員たちを叱り飛ばします。これに対し、議員たちは「権利請願」を提出します。これ以降、議会とチャールズ一世の間では長年に渡って対立が続き、1642年に議会の仕立てた軍隊とチェールズ一世の軍隊が衝突し、イギリスは内戦状態に入ります。
オリバー・クロムウェルはジェントルマンの出身で、ケンブリッジ市から代議士としてロンドンにやってきますが、新模範軍という騎兵隊を組織し、王党軍を破ってしまいます。クロムウェルはチャールズ一世を捕え、ホワイトホールに設けられた青空公開処刑場で国王の首を刎ねてしまいます。これ以降、議会の権力は増し、国王ですら、議会の声に逆らって勝手な真似はできなくなります。
さて、イギリスには地表に近いところに豊富な石炭がありました。石炭は同じ目方でも木より3倍の火力を提供します。これに気が付いた人々は世界で最初に石炭を日常生活に活用することを始めました。
石炭は炭田が消費地にどれだけ近いかで、そのコストが決定します。幸い、イギリスの場合、石炭が消費地に極めて近かったです。また炭田が海の近くにあったので、巨大消費地であるロンドンに石炭を簡単に運ぶ事が出来ました。
ところが問題が生じます。イギリスは雨が多いので、石炭を掘った穴に水が溜まり、それを汲み出すのがやっかいだという点です。この水を汲み出すため、採れたばかりの石炭を燃やし、その蒸気でポンプを動かす、蒸気機関ポンプを1712年にトーマス・ニューコメンが発明しました。この機械は、あくまでも炭鉱の中に据え置きされる、単一目的の装置でした。

イギリスは国王や教会からの影響力に対して議会が抑止力を提供した関係で、科学研究は教会や国家からの弾圧の対象とはなりませんでした。(これが、簡単な事のようで、実際はとても難しいです)
その自由な空気の下で、アイザック・ニュートンなどの天才が、どんどん研究をすすめてゆきました。人々はコーヒーハウスで新しい発明のアイデアを競い、あらゆる階層の人たちが、自由に意見交換できる雰囲気が醸成されました。そこでとりわけ重宝されたのは、すぐビジネスにつなげることができる実践的知識です。こうして工業的啓蒙がイギリスで盛んになりました。
例えばウエスト・ミッドランドのルナー・ソサエティは、名前の示す通り、満月の夜に集会を開きました。チャールズ・ダーウィンのお祖父さんにあたるエラスムス・ダーウィンはその中心的メンバーで、いろいろなアイデアを出しています。自動車の概念図を最初にしたためたのは、エラスムス・ダーウィンです。1760年頃、バーミンガムのソーホーにあるマシュー・ボールトンの工場がジェームズ・ワットのデザインした内燃機関を生産しました。

その頃、フランスはルイ14世の絶対君主制度でした。国王の頭を痛めていた問題のひとつが、人口が急増したパリで、どうやって水を運ぶか? ということです。そこでフランス政府は1779年にバーミンガムから蒸気機関を先ず輸入し、セーヌ川河畔にそれをしつらえ、そのすぐ横に、それをもっと大きなスケールでコピーするプロジェクトを始めます。この試みにはペリエ兄弟などの優秀なエンジニアや実業家たちが進んで政府の要請に応えました。
フランス政府は科学アカデミーに官主導の研究開発機関を設け、そこでは、まず世界から最新のテクノロジーを集め、それを分解、研究し、その詳細を報告書にして政府に提出しました。しかし、お役所仕事はのんびりしていたので、この作業に100年近くかかってしまいました。フランス政府は無秩序な科学の進歩や発明は非効率だと考え、政府主導で、秩序だった開発を指導することを目指したのです。しかしこのお節介は、結果としてイノベーションを遅らせてしまいました。
フランスの実業家は、行政の介入に嫌気が差し、技術革新を追求する熱意や、利益の極大化を目指す動機付けを悉く失ってしまったのです。(政府の肝いりで「日本のシリコンバレーを創ろう!」式のイニシアチブを提唱することが、如何に無意味か、この例は示しています)
さらにフランスの貴族は、商業に対して殆ど関心を示しませんでした。強い陸軍により領土を拡張し、そこから上がる作物で経済力を増すと言う、リニアー(延長線上)な発想しか出来なかったのです。
その頃、イギリスでは強い陸軍を作ることを止め、海軍による貿易ルートの保全に国家のリソースを集中しました。西インド諸島はその防衛ネットワークの要衝でした。アンティグアのイングリッシュ・ハーバーに軍港を設けました。その港の入口は小さく、高い山には大砲が据え付けられ、外敵からイギリス艦隊を守りました。またイングリッシュ・ハーバーの中にドックを設け、十数隻の軍艦が、常にメンテナンスを受けられるようにしたのです。これはわざわざ欧州まで帰ってからメンテナンスをした他の国々とは全く違うアプローチでした。
イギリスは1688年から自由貿易主義を強力に主張しました。それと同時に政府のビジネスへの介入は、最小限に抑えられました。もちろん、この貿易には悪い面もあります。例えばイギリスは二百五十万人の奴隷をアフリカから輸出しました。とりわけ砂糖のプランテーションには沢山の奴隷が投入されました。
テクノロジーと自由貿易という、2つの成長エンジンを得たイギリスでは、新しい富がもたらした中産階級が登場しました。このミドルクラスの勃興をいち早く理解し、それを最大限にビジネスに活用したのが、ウエッジウッドです。
ウエッジウッドは、それまで地元の職工がローカルに作っていたティーカップやお皿を、イギリス中に販売することを思いつきます。まず王室に美しいティーカップを納品し、「英国王室御用達」という文句を、全ての顧客の請求書やパンフレットに刷り込みます。さらに1774年にロンドンに旗艦店(フラッグシップ・ストア)をオープンし、自社の製品を陳列します。そのマーケティング・マネージャーがトーマス・ベントレーです。
このフラッグシップ・ストアのコンセプトは、他の商人たちにもすぐに伝わり、オックスフォード・ストリートは163店舗の様々な高級品店が並び、世界で最初のブティック街になりました。「英国王室で使われている紅茶カップと同じもので、自分もお紅茶を飲める」ということが、イギリスの中産階級のイマジネーションを刺激し、ここに世界最初のアスピレーショナル(背伸び指向)な購買行動が始まったのです。
このような消費文化が開花する前に、商人たちは輸送という大問題に取り組まなければいけませんでした。つまり陶器をどう安全に運ぶか? ということです。当時、イギリスではローカルの道路の保全の責任は教会にありました。しかし教会は道路のメンテナンスを怠り、その結果、ロバの背中に、二つの籠に分けて積まれた陶器の3分の1は、顧客に届けられる前に割れてしまいました。
そこで商人たちは議会に働きかけ、商人が直接、道路を建設し、それを保全することを許可する法案を成立させます。1706年に出来たターンパイク(有料道路)に関する法律がそれです。商人は通行料を課すことで、それをメンテナンス費用に充てたのです。
しかしロバに運ばせていたのでは、なかなか効率が上がりません。そこで運河の開発が始まりました。運河のバージは、一隻でロバ100頭分の石炭や穀物を運べたので、輸送コストが激減しました。

ウエッジウッドも運河のバージによる輸送の方が商品の痛みが少ないことに注目します。ウエッジウッドの工場は元々ノース・スタフォードシャーにありましたが、バージにすぐ積み込めるよう、工場を運河のすぐ横に移転してしまいます。
こうしてイギリスには無数の運河網が整備され、さらにそれが蒸気機関車の鉄道にとって代わられるわけです。この頃までに、英国では世界の石炭の3分の2が生産され、世界の鉄鋼の2分の1が生産されるようになりました。
1851年に開かれた博覧会は、イギリスの経済的成功の頂点を示すイベントで、世界中から珍しい品々が取り寄せられたわけですが、その中でも特に人気を博したのは、新しい機械や、水洗トイレなどの発明でした。

イギリスにおけるこのようは富の創造は、当然、資本の蓄積も意味します。ロンドンのシティは、そのような新しい資本を背景に発展してゆきます。シティは宗教の面で寛容であり、よそ者でも受け入れる土壌がありました。ドイツのユダヤ人であるネイサン・ロスチャイルドがロンドンで活躍したのも、そのような宗教的自由や人種的な寛容さがあったからです。シティにおけるイノベーションの少なからぬ部分は、そのような外人によって引き起こされました。
イギリスの優位が脅かされた一因は、アメリカという、イギリス以上に自由で、利潤追求的な国が登場したことによります。このとき、イギリスは既得権益にしがみつく側に回ってしまい、アメリカと戦争します。カーネギーやJPモルガンといったアメリカの実業家や銀行家は、英国のノウハウや資本を投下資本利益率の面で遥かに有利なリターンが狙えるアメリカに持ち込み、イギリス以上のスケールで事業展開しました。イギリスでは華々しい成功を収めながら、アメリカと太いパイプを持っていなかったロスチャイルドが急速に衰えたのも、それが原因です。
(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack)
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イギリスは1688年から自由貿易主義を強力に主張しました。それと同時に政府のビジネスへの介入は、最小限に抑えられました。もちろん、この貿易には悪い面もあります。例えばイギリスは二百五十万人の奴隷をアフリカから輸出しました。とりわけ砂糖のプランテーションには沢山の奴隷が投入されました。
テクノロジーと自由貿易という、2つの成長エンジンを得たイギリスでは、新しい富がもたらした中産階級が登場しました。このミドルクラスの勃興をいち早く理解し、それを最大限にビジネスに活用したのが、ウエッジウッドです。
ウエッジウッドは、それまで地元の職工がローカルに作っていたティーカップやお皿を、イギリス中に販売することを思いつきます。まず王室に美しいティーカップを納品し、「英国王室御用達」という文句を、全ての顧客の請求書やパンフレットに刷り込みます。さらに1774年にロンドンに旗艦店(フラッグシップ・ストア)をオープンし、自社の製品を陳列します。そのマーケティング・マネージャーがトーマス・ベントレーです。
このフラッグシップ・ストアのコンセプトは、他の商人たちにもすぐに伝わり、オックスフォード・ストリートは163店舗の様々な高級品店が並び、世界で最初のブティック街になりました。「英国王室で使われている紅茶カップと同じもので、自分もお紅茶を飲める」ということが、イギリスの中産階級のイマジネーションを刺激し、ここに世界最初のアスピレーショナル(背伸び指向)な購買行動が始まったのです。
このような消費文化が開花する前に、商人たちは輸送という大問題に取り組まなければいけませんでした。つまり陶器をどう安全に運ぶか? ということです。当時、イギリスではローカルの道路の保全の責任は教会にありました。しかし教会は道路のメンテナンスを怠り、その結果、ロバの背中に、二つの籠に分けて積まれた陶器の3分の1は、顧客に届けられる前に割れてしまいました。
そこで商人たちは議会に働きかけ、商人が直接、道路を建設し、それを保全することを許可する法案を成立させます。1706年に出来たターンパイク(有料道路)に関する法律がそれです。商人は通行料を課すことで、それをメンテナンス費用に充てたのです。
しかしロバに運ばせていたのでは、なかなか効率が上がりません。そこで運河の開発が始まりました。運河のバージは、一隻でロバ100頭分の石炭や穀物を運べたので、輸送コストが激減しました。

ウエッジウッドも運河のバージによる輸送の方が商品の痛みが少ないことに注目します。ウエッジウッドの工場は元々ノース・スタフォードシャーにありましたが、バージにすぐ積み込めるよう、工場を運河のすぐ横に移転してしまいます。
こうしてイギリスには無数の運河網が整備され、さらにそれが蒸気機関車の鉄道にとって代わられるわけです。この頃までに、英国では世界の石炭の3分の2が生産され、世界の鉄鋼の2分の1が生産されるようになりました。
1851年に開かれた博覧会は、イギリスの経済的成功の頂点を示すイベントで、世界中から珍しい品々が取り寄せられたわけですが、その中でも特に人気を博したのは、新しい機械や、水洗トイレなどの発明でした。

イギリスにおけるこのようは富の創造は、当然、資本の蓄積も意味します。ロンドンのシティは、そのような新しい資本を背景に発展してゆきます。シティは宗教の面で寛容であり、よそ者でも受け入れる土壌がありました。ドイツのユダヤ人であるネイサン・ロスチャイルドがロンドンで活躍したのも、そのような宗教的自由や人種的な寛容さがあったからです。シティにおけるイノベーションの少なからぬ部分は、そのような外人によって引き起こされました。
イギリスの優位が脅かされた一因は、アメリカという、イギリス以上に自由で、利潤追求的な国が登場したことによります。このとき、イギリスは既得権益にしがみつく側に回ってしまい、アメリカと戦争します。カーネギーやJPモルガンといったアメリカの実業家や銀行家は、英国のノウハウや資本を投下資本利益率の面で遥かに有利なリターンが狙えるアメリカに持ち込み、イギリス以上のスケールで事業展開しました。イギリスでは華々しい成功を収めながら、アメリカと太いパイプを持っていなかったロスチャイルドが急速に衰えたのも、それが原因です。
(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack)
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