ロシアという国は強いリーダーが登場するたびに、その下で急速に発展する歴史を繰り返してきました。イワン大帝、ピョートル大帝、エカチェリーナ二世などがその例です。

その中でもピョートル大帝(1672年~1725年)は、ロシアを後進的な農奴の国からヨーロッパの強国へと押し上げた功労者であり、ユニークなリーダーシップを発揮しました。

Peter_der-Grosse_1838

そこで今日はピョートル大帝を例に、リーダーシップはどうあるべきか? を考えてみたいと思います。

ピョートル大帝以前のロシアは、タタール人からの脅威に晒されて、彼らのやりたい放題、蹂躙されてきました。典型的な負け犬だったのです。

ロシア人は頑迷で、迷信深く、外から入って来る文物に対しては懐疑的でした。ロシア正教会が隠然たる力を持ち、臣民は皇帝と教会という、二つの権威から支配を受けていたわけです。

ピョートルの母、ナタリヤ・ナルイシキナは皇帝アレクセイの重臣の、アルタモン・マトヴェイエフの養女としてマトヴェイエフ家で育ちました。つまりそもそも皇室に嫁ぐ資格のある良家の出身ではなかったのです。たまたま奉公先が重臣の家だっただけで、ごく普通の娘だったわけです。

でも教育という点ではナタリヤはとても恵まれた環境にありました。なぜならアルタモン・マトヴェイエフは学究肌で、西洋事情に明るい重臣として重用されており、奥さんもメアリー・ハミルトンというスコットランド人だったからです。マトヴェイエフの家はモスクワのドイツ人街にあり、このゲットーはロシアの中で、まるで外国のような景観を呈していました。

マトヴェイエフの家では西欧から来客があるたびに晩さん会が開かれ、ナタリヤはそのホステスとして食事を運び、時にはちょっと会話に参加して接客したわけです。これは当時のロシアの女性ではありえないことです。

皇帝アレクセイは最初の妻、マリヤ・ミロスラフスカヤとの間に13人もの子供をもうけますが、その殆どが幼くして病死し、病弱のフョードル、知恵遅れのイヴァン、ソフィアの3人しか成人しませんでした。後継ぎの男の子が二人ともイマイチだったので、マリアが死んだ時、後継をどうする?という不安が出ました。

それで落ち込みまくった皇帝アレクセイは、信頼する重臣マトヴェイエフの家に行きます。そこで晩さんしているとき、給仕に現れたナタリヤに一目ぼれして、「良い婿をさがしてあげよう」と約束し、後日、「オレでは、どうかな?」と自薦(笑)するわけです。(一説には、ナタリヤはナイスバディの持ち主だったそうです)

マトヴェイエフ一家は、このアレクセイの言葉の持つ重み、その危険に畏れをなしてしまいます。なぜならナタリヤが妃に収まると、当然、妻の義務として健康な後継を生むことが期待されるし、若し後継が生まれると、第一正妻だったマリヤ・ミロスラフスカヤの子供たちと継承戦争に発展する恐れがあるからです。

しかし皇帝の意向に逆らうわけにはゆかず、ナタリヤはアレクセイの妃になり、男の子、ピョートルを授かります。

アレクセイが死ぬと、第一正妻の側のフョードルが皇帝になりますが、フョードルが死ぬとピョートルに帝位を持って行かれるのを快く思わないソフィアが銃兵隊をそそのかし、皇帝の住まいのあるクレムリンに攻め込んで、狼藉を働きます。ナタリヤが嫁ぐ時、マトヴェイエフ一家が恐れたことが現実となったのです。

ピョートルは危ないところで命だけは助かり、その後、ソフィアがイヴァンとピョートルの摂政になるというカタチで、権力の座につきます。この事件が起きたのはピョートルが10歳の時でした。


このときのトラウマ体験でピョートルはモスクワやクレムリンが嫌いになります。また本来、皇室を守る筈の銃兵隊が謀略に利用されたことから、銃兵隊に対しても猜疑心を持ちます。さらにソフィアの側に回ったロシア正教会に対しても恨みを持ちます。

形式的にイヴァンとピョートルは帝位を分け合うというカタチになっているものの、実際にはソフィアが摂政として実験を握っており、ピョートルとナタリヤは郊外のプレオブラジェンスコエに移ります。つまり体よくクレムリンを追い出されたわけです。

この別荘でピョートルはお付きの家来たちと戦争ごっこに明け暮れます。アウトドア好きのピョートルは昔外国人が置き去りにして行ったヨットを納屋の中に発見し、それを修繕し、水に浮かべて操船を覚えます。

また近くにあったドイツ人街に出入りし、そこでパトリック・ゴードンという傭兵の司令官と友達になります。ゴードンはピョートルの取り巻きの、戦争ごっこをしている付き人たちに、外国流の戦争の仕方を指導します。またドイツ人街に来るオランダの商人から、オランダやイギリスが栄えているのは貿易をしているからであり、貿易をするためには強い海軍による保護がなければいけないというエピソードを聞きます。

ピョートルの戦争ごっこはだんだん本格的になり、この遊び友達から構成されるピョートルの私兵は、銃兵隊より強くなってしまいます。このチカラを背景にピョートルはクレムリンに戻り、ソフィアを追い落とします。

単独の皇帝として実権を握ったピョートルはタタール人を攻撃するためにアゾフの戦いを仕掛けます。この戦いではバージに積んだ大砲で相手の城を攻略しました。

ピョートルは臣民に「ロシア風の長い髭を生やすのなら、それに課税する」と宣言します。これは日本のチョンマゲ禁止と似ています。

造船のノウハウを取得するため、自ら使節団を作り、お忍びの立場で、ひとりの大工としてオランダとイギリスの造船所を訪ね、そこで見習いとして造船技術の全てを学びます。当時、造船は貿易のための重要な技術であり、今でいえばさしずめどこか外国の国王がインターンとしてシリコンバレーに来て、フェイスブックに職を得るのと同じノリです。そこで得た友人関係を利用し、ピョートルはオランダの船大工たちを雇い、ロシアに連れて帰って、海軍を作る準備をします。

Peter_in_Holland

つまりピョートルは最新技術、戦争などの場面では常にHands-onの知識を自ら率先して体得する主義であり、誰よりも屈強な船大工、誰よりも腕のいい歯医者を自負していました。ピョートルに虫歯を抜かれそうになった家来は、ガクブルだったそうです。

ピョートルはバルト海に軍港を持つため、スウェーデンと共同でその港を運営することをスウェーデンの若い国王、カール十二世に提案しますが、当時、ロシアより遥かに強国だったスウェーデンはこれを拒否し、両国は戦争状態に入ります。ロシアは緒戦では敗北しますが、ポルタヴァの戦いでスウェーデンを破ります。その際、ピョートルは大砲を作るために教会の鐘を鋳潰してしまいます。ここにも古い権威に対するピョートルの不遜な態度が現れています。

こうしてスウェーデンからの脅威が無くなったため、ピョートルはバルト海沿岸の沼沢地にサンクト・ペテルブルグという街を立ち上げるわけです。この建設は莫大な労働力と費用を要し、ロシアを疲弊させます。

以上をまとめると、ピョートル大帝はブツブツ文句を言う、反動的なロシアの庶民や教会を無理矢理引っ張って、オランダやイギリスといった、当時の一流国を模倣しようとします。その断固とした決意で、ロシアは暗愚な農奴の国から軍事強国へと変身します。一般にロシア人は民主主義には懐疑的であり、むしろ強く、賢明なリーダーに、ぐいぐい国を引っ張って欲しいという願望が強いです。ロシア人のそうした考え方はピョートル大帝の時に確立されたと言っても過言ではありません。プーチン大統領がシベリアで狩りをしたり、オートバイをぶっ飛ばしたりしてマッチョをアピールするのは、ピョートル大帝のイメージと自分をダブらせている側面があると思います。

ひとつ前のエントリーで書いた、「リーダーの条件」に照らして検証するならば、「ここぞ」という時に、孤高の決断を下すことが出来たという点、さらに臣民を、未だ到達したことのない次のステージにまで引っ張ってゆくことが出来たという点で真のリーダーだと言えるでしょう。

(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack

【お知らせ】
Market HackのFacebookページに「いいね」することで最新記事をサブスクライブすることができます。
これとは別にMarket Hack編集長、広瀬隆雄の個人のFacebookページもあります。こちらはお友達申請を出して頂ければすぐ承認します。(但し本名を使っている人のみ)
相場のこまごまとした材料のアップデートはMarket HackのFacebookページの方で行って行きたいと考えています。