紀元後(AD)66年にローマ人がユダヤ人をエルサレムから追い出します。ユダヤ人は彷徨える民となるわけです。このときイエス・キリストのフォロワーであるナザレ人もユダヤ人から離反し、キリスト教徒になります。

312年にローマ皇帝であるコンスタンティヌス一世がキリスト教に改宗します。その後、ローマは崩壊し、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に支配されるようになります。

610年、ムハンマドは現在のサウジアラビアのメッカに住んでいました。ムハンマドはエルサレムの存在を知っていて、ユダヤ教とキリスト教の経典も知っていました。ある夜、ムハンマドは(たぶん夢の中でだと思いますが)人間の顔をもつ馬に乗った天使ガブリエル(回教ではジブリール)からの訪問を受けます。つまり天啓を受けるわけです。

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そしてガブリエルに導かれてエルサレムに飛んで行って、エルサレム神殿内にある聖なる岩のところから、真っ直ぐ天に上り、いろいろな預言者に片っ端から邂逅します。このときにムハンマドが受けたさまざまなインスピレーションが、114章の経典、「コーラン」になるわけです。それ以来、ムハンマドはメッカにではなく(=のちに聖地はメッカに移りますが)エルサレムの方向に祈ったわけです。

632年にムハンマドが死ぬと審判の日が来ると思った回教徒は635年にエルサレムに攻撃をかけます。なぜなら審判の日が来る前にエルサレムを急いで確保しないといけないと思ったからです。

攻囲戦の末、降参したエルサレムの人々は、オマールにエルサレムの鍵を渡し、明け渡す代わりにエルサレムの城内で自由に信仰をしてよいという条件を導き出します。これがパクト・オブ・オマール(オマールの協約)と呼ばれるものです。

オマールはキリスト教徒によって追放されていたユダヤ人をエルサレムに呼び戻し、市民がそれぞれの宗教を信仰することを許可します。

685年、ウマイヤ朝のアブドル・マレックがカリフとなり、岩のドーム(ドーム・オブ・ザ・ロック)を建設します。これは神殿であり、モスクではありません。

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その地下にある岩が、マホメットがガブリエルと天に上った場所です。またこの岩はキリスト教でも神聖な場所です。

さて、アブドル・マレックは岩のドームとは別にアルアクサー・モスクも建立します。

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この二つの建物の写真を見ればわかるように、キリスト教の建物より回教の建物の方が遥かに立派でした。これは偶然ではなく、ウマイヤ朝がわざと見事な建物を建てることにこだわったからです。



アッシリアのウマイヤ朝はエルサレムがとても好きで、ここに遷都することすら考えました。ウマイヤ朝は、回教としてはとても退廃的な趣味で、美術品、装飾品などにたいする傾倒が強かったです。例えば回教では人の顔を彫刻にすることは禁じられていますが、ウマイヤ朝の時期には、平気でそれが行われていました。この時代、ローマの裸体彫刻に匹敵するような裸体彫刻すら登場しています。

ウマイヤ朝は贅沢で寛容な朝廷でした。しかし720年にカリフが神殿の丘にユダヤ人が足を踏み入れることを禁じました。それ以降、1000年に渡ってユダヤ人は神殿の丘に入れなくなってしまいます。

969年にファーティマ朝が中東で大きな勢力を形成するとシーア派のうち、モハメッドの娘ファーティマを信ずる一派がエジプトからエルサレムに来ました。ファーティマ朝はキリスト教にも寛容でした。

1000年にファーティマ朝のアルハキムがカリフになります。アルハキムはハンサムで文芸を愛し、人気者の支配者でしたが、アヘン中毒になり、次第に狂人になりました。そしてユダヤ人とキリスト教徒を弾圧したためユダヤ人はエルサレムを去りました。一方、キリスト教徒は聖なる土曜日に聖火の降臨の儀式をしたところ、アルハキムがこれをみとがめて、コンスタンチンが建立した教会を破壊します。

キリスト教徒はこれにもかかわらず巡礼を諦めませんでした。その後、トルコの武将の影響下に入ったエルサレムはキリスト教徒の虐殺を計画します。それを見て欧州のキリスト教徒はこぞってエルサレムの救援に駆けつけるわけです。これが1095年の十字軍遠征です。

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エルサレムに聖戦を仕掛けるということを唱えたのは教皇ウルバヌスニ世です。「十字軍に参戦すれば心の救済が得られる」という呼びかけで、騎士や一般民衆が3年間にわたり8万人でエルサレムを攻めるわけです。しかし最後にはそのうち1万人だけが生き残りました。

攻囲戦の後、エルサレムになだれ込んだ十字軍は大量殺戮をします。回教徒は岩のドームにたてこもり、一方、ユダヤ教徒はシナゴーグにたてこもりますが、十字軍はその両方とも殺戮しました。この時、全部で1万人が殺されたと言われます。

この戦いののち、黄金の門のすぐ外に十字軍の戦士の墓場が作られました。十字軍の兵士たちがここに埋葬されることを選んだ理由は、最後の審判の日、ここがその場所となると預言されていたためです。つまり天国へ行ける一番有利なロケーションというわけです。

十字軍は岩のドームを「テンプル・オブ・ザ・ロード」に改称し、アルアクサー・モスクは「バレス・オブ・ソロモン」と改称されます。つまり両方とも教会としてリサイクルされたわけです。

十字軍の殺戮でエルサレムの人口が極端に減ってしまったため、シリアとアルメニアのキリスト教徒の入植が奨励されました。

その後、メリセンド女王の治世の時代になるとエルサレムの人口は3万人に増え、繁栄が戻ってきました。回教徒は再び豊かになった聖地の奪回を狙います。政治家のサラディンは賢く、人気があり、この人望を背景にエルサレムに兵を出し、包囲します。キリスト教徒は奴隷にされました。サラディンはエルサレムを盗った後、神殿の丘からキリスト教の要素を全て排除し、回教のデザインを復活させました。サラディンはキリスト教徒の残した教会をモスクに転用します。これは十字軍がリサイクルしたのと逆をやったことになります。サラディンはキリスト教徒を締め出した後、回教徒を中東各地から集めました。

その後、エクスキャリバーの剣を使うリチャード獅子王がエルサレム奪還を計画します。リチャード獅子王はサラディンと交渉し、ジャファ協約で分割統治案に合意します。そこではキリスト教徒はエーカー(ACRE)を首都に、サラディンはエルサレムをキープします。そしてキリスト教徒のエルサレムへのアクセスは保証します。

その頃、第二十字軍がエジプトに遠征に出ます。これを見たサラディンの後継者たちは、自らエルサレムの城壁を破壊し、防御価値を無くした上で、キリスト教徒にエルサレムを開け渡す準備をします。なぜならサラディンにとってはエジプトを守る方が重要だったからです。ところが第二十字軍はエジプトで負けて帰国してしまいました。エルサレムの城壁を自ら破壊したサラディンの後継者たちは、自分で自分の首を絞めたわけです。


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