1220年にシシリーの王、フレデリック二世がエルサレムに来ます。彼はバルト海から地中海までの広大な土地を支配する王です。サラディンの後継者、カミールはフレデリック二世と事を構えるのは得策ではないと考え、条件交渉に臨みます。1229年にフレデリック二世は全てのエルサレムを獲得します。但し神殿の丘だけは回教徒が管理するという条件が付けられます。また回教徒は自由にエルサレムの町の中を行き来できるようにするということも合意されました。その中でユダヤ人の自由だけが除外されました。これはエルサレムの歴史上、最も周到な秘密平和協定だったと言われています。

こうしてフレデリック二世はエルサレムの町の鍵の管理者となります。ところがローマ教皇がフレデリック二世を破門したため、フレデリック二世はエルサレムを去らなければいけなくなりました。

1244年になるとタタール人の傭兵がエルサレムの内部者の手によって招き入れられ、これらの傭兵は狼藉を働きます。

この混乱でエルサレムの人口は一時2000人にまで激減しますが、マムルク軍のバイバル将軍が王座につくと一転して回教によるエルサレム支配の黄金時代を迎えます。回教徒のエルサレムへの巡礼の習慣が復活し、巡礼の旅人たちの観光収入でエルサレムは豊かになります。

1516年、オスマン帝国がシリア方面から攻めて来て、サリーム・ザ・グリムがエルサレムを支配します。その息子、スラマン岩のドームを修復します。有名なダマスカス門を含む城壁を作ったのもスラマンです。

この頃、スペインの抑圧を逃れてスファラディ系ユダヤ人がエルサレムに来ます。スファラディとはスペインという意味です。また東欧からはアシュケナージ系ユダヤ人もやってきます。これらのユダヤ人は神殿の丘にいちばん近いウエスタン・ウォールで祈りを捧げるようになります。

オスマン帝国はキリスト教徒もユダヤ教徒も回教徒も、みんな「ピープル・オブ・ザ・ブック」だという理由で、比較的寛容でした。但しキリスト教徒には高い税金を課したため、フランスの後押しを得ているカトリック、ロシアの後押しを得ているロシア正教会などの財源が潤沢なグループだけがエルサレムに残ることが出来ました。

1702年にエリートのアラブ・ファミリーにコントロールされた教会への増税に対し単体勢力が動きだします。福音主義的なキリスト教徒はユダヤ人をキリスト教に改宗することを積極的に働きかけました。その中でもロシアの勢力は最もアグレッシブでした。

1846年になるとフランスのカトリックとロシア正教会が抗争を始めます。ロシアのニコラス一世は自分がエルサレムの支配者であると自負し、それを貫くためクリミア戦争をはじめます。

しかしクリミア戦争ではロシアが負けます。


この頃からロシアに住むユダヤ教徒がロシア皇帝のポグロム(ユダヤ人弾圧)を避けるためエルサレムに移民しはじめます。1875年、オーストリアのジャーナリスト、セオドア・ハーツルが「ユダヤ国家」という本を出します。これがシオニズムのはじまりです。

1914年に第一次世界大戦がはじまるとオスマン帝国はドイツと組みます。劣勢な英国は1916年にアラブ人に対し「中東を全部アラブ支配にする」と約束することでオスマン帝国にたいして蜂起を促します。ロイド・ジョージ首相はこれと同時にユダヤ人とも密約を結び、アメリカとロシアに住む裕福なユダヤ人から支援をもらおうとします。そこで「パレスチナにユダヤ人の母国を建設することを認める」と約束してしまいます。この英国の矛盾した約束が、後々までエルサレムをめぐる争いに影を落とします。

この密約の後、エジプトに駐留していた英国のアレンビー将軍はオスマン帝国に支配されていたパレスチナに侵攻します。そしてエルサレムに入城したアレンビーは「全ての宗教を保護する」とスピーチします。ひとたびオスマン帝国が崩壊すると、シリアとレバノンはフランス支配下に入り、英国はヨルダンとパレスチナを支配します。そしてエルサレムだけは植民地の扱いではなく国際連盟の共同管理となります。

1920年に英国はガバナーズ・ビルディングを丘の上に建設します。そして英国はユダヤ人入植者を歓迎します。当時の入植者は世俗的社会主義国の建設を望みました。しかしユダヤ人が増えると摩擦が生じ、ユダヤ人がウエスタン・ウォールで祈ることに妨害が入りはじめます。これにユダヤ人が抗議し、小競り合いがはじまります。

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1933年にヒトラーが登場するとユダヤ人が怒涛のようにエルサレムに来たのでパレスチナ人はいよいよ脅威を感じます。

英国のネビル・チェンバレンは、ドイツとの戦いに際してアラブの支持が必要だと判断し、ユダヤ人の入植に制限を設ける一方、パレスチナには「10年で完全に独立させてやる」と提案します。パレスチナのムフティはそれを拒否します。アラブ人はナショナリズムの見地からドイツを支持しており、ムフティ自身もヒトラー支持に回ります。

英国は第二次大戦後もユダヤ人の入植を制限したためユダヤ人地下活動家がキング・デービッド・ホテルに爆弾を仕掛けます。

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英国は自分ではもうエルサレムを管理できないと悟り、判断を国連に委ねます。国連は「二国解決法」を可決します。そこではエルサレムだけが国連の保護の下、特別のステータスを保持します。ユダヤ人はやっと自分達の国が建国できるのでこれを歓迎しますがパレスチナ人はこの決議を不服とします。こうしてイギリスが去るなりエルサレムは内戦に突入してゆくわけです。

ユダヤ人はイスラエル国家の建設を宣言し、アラブ各国は直ちにイスラエルを攻撃します。なかでも良く訓練されたヨルダン軍はエルサレムに迫り、2000人のユダヤ人が家から追い出され、22のシナゴーグが破壊されました。さらにウエスタン・ウォールにユダヤ人が立ち入りることが禁止されました。

一方、ユダヤ人は逆にユダヤ人居住区からアラブ人を追放しました。1949年にヨルダンとイスラエルは停戦協定をむすび、その時点で両軍が展開していた前線をもって停戦ラインとします。

1967年にイスラエルが「6日戦争」という電撃的な攻撃をヨルダンなどにかけ、あっという間にガザ、ゴラン高原、シナイ半島、ヨルダン川西岸(ウエストバンク)を占領します。このときイスラエル軍は念願のエルサレムを制圧、とうとうユダヤ人がエルサレムに戻るわけです。イスラエルは世界が注目する中で他の宗教を容認する態度を示す必要を感じ、エルサレム内で回教徒、キリスト教徒を容認します。


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(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack

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