イスラム教は現在のサウジアラビア(当時は、そう呼ばれていませんでした)で生まれた、比較的歴史の浅い宗教です。でも世界の人口の20%に相当する12億人がイスラム教を信じており、キリスト教に次ぐ大きな宗教です。

イスラム教の開祖はムハンマド(AD570年~632年)です。ムハンマドが生きていた頃のアラビア半島はベドウィンと呼ばれる遊牧民が砂漠をさすらうライフスタイルが普通でした。そこではオアシスの貴重な水を巡って争いが起きるなど、緊張に次ぐ緊張の暮らしが普通です。

このため人々は部族単位で生活し、戦闘し、信仰しました。それぞれの部族は、樹木やその他の自然物を各々選び、信仰の対象として拝んだのです。

メッカにあるカーバ(四角い建屋)は天から降ってきた石を祭っているといわれています。これはひょっとすると隕石かも知れません。アブラハムがカーバを建立したとも言われています。

さて、カーバの中では争い事をしてはいけないという合意が、全ての部族、土着宗教の間でありました。これはイスラム教がおこるよりも、もっと前に出来あがった約束事です。そこでは武器を使えないし、争い事はできないので、自然に商売の場として理想的な環境になりました。市場(いちば)が成立したのは、ある意味で当然だと言えます。人々は香料、穀類、家畜、織物などを交換しました。メッカはお遍路さんビジネスが転じて、砂漠の中で、世界の物品が集まる一大集積地になったのです。

ムハンマドは聡明だったので、25歳の若さで商人として大成功を収めます。その取引先のおかみさん、ハディージャはムハンマドの商才に感服し、押しかけ女房になります。確か彼女の方がずいぶん年上だったはずです。彼女はムハンマドのビジネス面での師匠であり、なおかつ商売を広げる上での運転資金の出し手にもなりました。

ムハンマドは商人として世界の貿易商と幅広いコンタクトがあったので、キリスト教徒やユダヤ教徒の信仰にも詳しかったです。言い換えれば、ムハンマドは、すばらしい外交官であり、ネゴシエーターだったのです。


ムハンマドは商売上のもめごとの調停者として随一の評判を取り、人々はムハンマドの叡智に依存するようになります。例えば、カーバの神聖な石が、すってんころりんと転がり落ちてしまったことがありました。誰がもとの場所に石を戻すか(=それは名誉ある仕事です)で、4人の部族長が争いを始めてしまいました。そのとき、ムハンマドは「絨毯の上にその石を置こう。そして四隅をそれぞれの部族長が持つことで、全員で石をカーバに戻そう」と提案します。このエピソードからもムハンマドが現実的な解決法を見いだせる、柔軟な頭の持ち主だったことがわかります。

こうしてムハンマドは次第に皆からアル・アミン(信頼できる男)と呼ばれるようになります。

ある日、ムハンマドがメッカの近郊の洞窟で寝ていたら、天使が降りて来て「メッセージを繰り返せ」と告げました。そのメッセージは詩のような形態を取っていて、内容的には「ひとつの神しか居ない」という意味でした。

それまでメッカには部族の数に応じて何十という神様が拝められていたわけですから、「ひとつの神しか居ない」というメッセージは、かなり居心地の悪い発言です。逆に言えばこれまで繰り返されてきた「おれっちの神様」の優位性を巡る部族間の争いも終焉することを意味します。

ムハンマドが持ってきた、天使からのお告げの、もうひとつの大事な要素は、社会的平等ということです。当時メッカは市場が栄えたおかげでリッチ層が輩出されていました。中東で最も貧富の差の激しい場所になっていたと言い直しても良いでしょう。

ところがムハンマドのもたらしたメッセージは、「皮膚の色、人種は関係ない。豊か、貧しいも関係ない」という、極めて普遍的なメッセージだったのです。貧乏人の救済というイメージが強かった点は、特に注目されます。それは口承文化であり、神の言葉はコーランという写本に後日まとめられました。コーランには倫理規定や社会規範も含まれています。そして、あくまでも口承のストーリーで神の存在がほのめかされるべきであり、偶像が大事なのではないという事が強調されます。

ちょっと話は脱線しますが、コーランは文字の美しさというものをとても大事にします。日本語的な言い方をすれば「書道」です。シリア系アラブ人の血を引くスティーブ・ジョブズが書道にとてもこだわったのは、だから偶然でもなんでもありません。

さて、話をムハンマドに戻すと、ムハンマドのもたらした天使の言葉は、メッカの商人にとって、ちょっと都合の悪い点もあります。色々な神様を祭るメッカの、お遍路さんビジネスが脅かされてしまうと彼らは考えたわけです。

そこで「モーゼは奇跡をおこした。イエス・キリストも奇跡をおこした。でもムハンマドには奇跡が無い。おまえは何故、奇跡を起こせないのだ?」と批判したわけです。

ムハンマドはメッカを追われ、仕方なくメディナに移ります。その後、メッカの商人たちがメディナに攻め込み、ムハンマドの一派を根絶しようと試みます。メディナはこれを跳ね返し、逆にメッカへ攻め込みました。メッカを陥落させたムハンマドは、殺戮をせず、メッカの人々を許しました。これは、それまでの慣習とはぜんぜん違います。ただ、カーバにある他の宗教の偶像は全て破壊されました。なぜならイスラム教は偶像崇拝を禁じているからです。

こうして622年がイスラム暦初年となり、わずか50年でローマ帝国より大きい範囲にイスラム教の信仰が広がりました。このように急激にイスラム教が広まった背景として「改宗しなければ死を」ということをイスラム教が要求したからだと考える人が居ますが、それは正しい歴史の理解ではありません。だいいち、そんなに沢山の人を殺すことは、物理的に無理です。

実際のところ、改宗がどんどん進んだ本当の理由は、その前に存在した宗教に、人々がトコトン愛想を尽かしていたからです。イスラム教普及のもう一つの理由は、行政システムの導入を主張しなかった点だと思います。

またキリスト教、ユダヤ教は、同じ「ピープル・オブ・ザ・ブックス」として容認されました。従って、イスラム教か、ユダヤ教か? というような二者択一を迫る考え方は、ムハンマドの時代には無かったのです。その証に現在も存在するシリアのダマスカスの大モスクは、もともと教会でした。キリスト教徒が日曜日に礼拝を上げ、イスラム教徒は金曜日に祈りをささげるというカタチで二つの宗教が建物をシェアすることは、当り前だったのです。のちにイスラム教徒がキリスト教徒からその建物を購入し、タイルで装飾したわけです。

なお中世ヨーロッパがDark Ages(暗黒時代)と呼ばれる、愚かで粗野な暗い時代に入ってゆく中で、イスラム文明は、そのような文明の後退を経験しませんでした。たとえばチュニジアでは世界最初の上水道が考案されたし、アラビア数字は現在でも世界の数学のスタンダードとして使用されていますし、ヘレニズム文化をイスラムに翻訳する作業が現在のイラクで進められ、バクダッドは世界の教養の都になったのです。また伝染病に関する研究は黒死病がはびこった欧州より遥かに進んでいました。

我々がハイテク・トレーディングなどの局面で使うアルゴリズムという言葉は、バクダッドの数学者、アルゴリズミーから来ていることは、金融関係者なら常識です。

イスラム世界が叡智や文化の面で、駄目になってしまったのは、もっとずっと最近の事なのです。そしてそのひとつの原因はサウジアラビアのワッハービズム(一種の原理主義)に代表される極端な考え方をする一派が、石油の権益に目がくらんだアメリカの後ろ盾を得て、権力の座についたことにあります。


(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack

【お知らせ】
Market HackのFacebookページに「いいね」することで最新記事をサブスクライブすることができます。
これとは別にMarket Hack編集長、広瀬隆雄の個人のFacebookページもあります。こちらはお友達申請を出して頂ければすぐ承認します。(但し本名を使っている人のみ)
相場のこまごまとした材料のアップデートはMarket HackのFacebookページの方で行って行きたいと考えています。