いきなりニューヨークで面接しろと言われても、困ります

第四章

東京に帰った私は先ず両親に転職の話を切り出した。
山喜証券を辞めるという事については黙って聞いていた両親だが、ニューヨークに就職すると告げると二人とも怒り出した。
「そんな……裕美、考え直してちょうだい」
「じっくり考えるんだぞ、裕美」
叱られながら自分の中で決意がだんだん固くなるのを感じた。
正直なところ、日本に帰って来る飛行機の中では、未だ昨夜のキスの余韻で頭がボーッとしていた。
だから転職という一大決心に関しては、うつろなイメージしか持てなかった。
でもこうやって両親に反対されてみると(何が何でもケビンのそばに居たい)という気持ちが湧いてきた。
(そのためなら一切の事を投げ出しても構わないわ)

月曜日にヘッドハンターのロバートソンに電話した。
「面接が上手く行って、おめでとう」
彼はすでに面接の結果を知っていた。
「私の読み通りだったね」
ロバートソンが得意になっているのには腹が立ったが、そもそもショーンフィールド&サンズというアイデアを思いついたのは彼である。
彼には感謝した。

数日後、ショーンフィールド&サンズから正式なオファー・レターが着いた。
基本給は七万ドル、肩書はアソシエートと書いてあった。
人事のマリアンからのレターも同封されていて、ビザの手続きや、住む場所など、身の回りの事に関して書かれていた。
出社は四月からとなっていた。
正副二枚あるオファー・レターの両方にサインして、そのひとつを送り返し、山喜証券に退職届を出した。

私がニューヨークに戻ったのは三月末だった。
マンハッタンの南端の再開発地域、バッテリーパーク・シティに、完成したばかりのゲートウェイ・レジデンスというアパートがある。ショーンフィールド&サンズはそのビルの中のユニットの幾つかを、社宅として購入してあった。
私はそこの、ハドソン川と自由の女神が見えるユニットに入居した。
アパートの周囲は、まだあちこち建設現場の柵で囲われており、作業員たちが忙しく立ち回っていた。
私のアパートの北には、ワールド・フィナンシャル・センターが完成を間近に控えており、先端を太い縄で結わえた巨大なパームツリーが、クレーンによって搬入されている最中だった。
ウォール街が伝統と格式を体現した界隈なら、バッテリーパーク・シティは若さと新しい富を象徴していた。

ニューヨークに着いた最初の週末の朝、ケビンが私のアパートに来た。
二人で生活に必要なものを買いに行った。
キャナル街からウエスト・ヴィレッジまで歩いて、キッチン用品などを両手に持てる限り買いそろえた。
タクシーを拾ってアパートに帰った。
山のような買い物袋を部屋に運び込むと、もう一度イースト・ヴィレッジまで戻った。
それというのもバッテリーパーク・シティは未だ完成したばかりで、周りにお店が無かったからだ。
ケビンは私をクーパー・ユニオンに案内した。
土曜日で授業は無い日だったが、校舎の中には学生がちらほら居て、制作に取り組んでいた。
ケビンと私がひとつの部屋をのぞき込むと、高い窓から夕日の差し込むアトリエで、見事なプラチナ・ブロンドの女性が画架に向かっていた。
「ハイ、グレース。彼女は裕美だよ」
グレースと呼ばれた女性がこちらを振り返った。
(うわあ、お人形さんみたい!)
唇は豊かで、肉感的だった。
頬骨は高く、瞳は透明感のある青色で、見つめられると吸い込まれそうな磁力があった。
眉毛もプラチナ・ブロンドなので、遠目には眉毛を剃っているように見える。
色白のせいか、わずかなアイラインでも大きな目が際立った。
「あらケビン、素敵な方ね」
「裕美は高校の時、交換留学でうちにホームステイしていたんだ」
「わたしグレースよ。ケビンにガールフレンドが居たなんて、驚きだわ」
「裕美は月曜日からウォール街の投資銀行で働きはじめるんだ」
「ふうん」

ケビンと私はクーパー・ユニオンを出て、セント・マークス・プレースの露店を見て回った。
その後、二人は二番街のウクライナ料理店、キエフに入った。
キエフはこの辺りに多い、東欧からの移民を相手にした店だから、店内の調度は安っぽかった。
ピエロギを注文して、ケビンと真っ直ぐに向き合ったとき、突然、ある感情が私の中に湧き起こった。
「ねえケビン」
「ん?」
「私、いまとっても幸せよ」
ケビンはテーブルの上の私の手に自分の手をかぶせながら「ぼくもだよ」と言った。
「今度の上司はね、自家用ヘリコプターを自分で操縦してコネチカットの自宅から出社するのだと言っていたわ。でも私はお金なんか欲しくない。あなたと一緒にフライパンやコーヒー・マグをショッピングしているだけで、最高に幸せな気分よ」

初出社の日、七時にショーンフィールド&サンズのトレーディング・ルームに行くと、自分の席はフランクのとなりだった。
つまりメアリーベス、フランク、私の順で並んでいるわけだ。
フランクはトレーディング・ルームの席の他に「金魚鉢」と呼ばれる、ガラス張りの個室を持っていた。
金魚鉢はトレーディング・ルームの端にあり、そこからフロア全体を見渡せるようになっていた。
その部屋の中には大きなデスク、本棚、コートハンガー、五人ほどが集まる事の出来る小さな会議テーブルがあった。
フランクは金魚鉢の中で他の社員と打ち合わせ中だ。
メアリーベスは私に証券外務員試験の参考書、入社時に提出するいろいろな書類、確定申告の際、会社から外人社員にあてがわれる税理士のパンフレットなどを渡した。
「フランクがじきじきにセールスの仕方を教えるって張り切っていたわよ。裕美、覚悟は出来ている?」
「ベストを尽くします」
「フランクはね、自分でも顧客を担当しているの。アメリカン・トラスト、ゼネラル・エレクトリシティ年金ファンド、バレーフォージなどよ。これが電話番号のリスト。あなたにも渡しておくわ。ゆくゆくはあなたもフランクのサブとして、彼らからの電話に対応して欲しいの」
緑色のプラスチックの日よけを被り、白いシャツの腕に黒いバンドをした六十歳くらいの細身の男が、グレーの手押しワゴンの上一杯に積んだ書類の束を、ドスン、ドスンと配って回っている。
私のデスクの上にもひとつそれが投げられた。
「ウエイン、この子が裕美よ」
「よろしくおねがいします」
「トーキョーから来た子だね」
男はそういうとワゴンを押して行ってしまった。
「ウエインはね、郵便室の責任者なの。書類のコピーや製本もそこでやるのよ。いま朝会に使うリサーチ資料を配って歩いているので忙しいの。朝会は七時半からよ」
メアリーベスは私のデスクのところに来ると機器の説明を始めた。
「この黒いボードはターレットと言ってトレーダーの使う電話よ。赤いランプが点滅しているのは電話が鳴っているってこと。赤が灯ったままならそのラインで誰かが話し中よ。そのボタンを押せば自分も会話に割って入ることが出来るし、黙って盗み聴きすることもできる。電話を切る時はこちらのボタンを押すの。あなたの電話番号はこのボタンよ。こっちはワッツ・ラインという長距離内線よ」
メアリーベスは黒いタートルネックのノースリーブ・セーターにネックレス、黒いミニスカートに黒いストッキングという格好だった。
微かに香水の匂いがした。
彼女の手は繊細で、指は細く、長かった。結婚指輪はしていなかった。
「スクリーンは全部で五つよ。この大きいやつがクウォートロン、株価はこれで見るの。こっちがロイターよ。ひとつのモニターはニュースのページにセットしてある。あとこれが債券、こっちが為替。社内のリサーチはこちらのモニターで見ることができるわ」
「この小さい箱はスクウォーク・ボックスといって、トレーダー同士が会話するときに使うの。これがマイクロフォン、しゃべる時はこのボタンを押したままにする」
メアリーベスの説明を聞いていたらフランクが金魚鉢から帰ってきた。
薄い水色のシャツに黄色のズボン吊りをしていた。
ズボン吊りにはサーカスの踊る象の模様が入っている。
ネクタイは赤の水玉模様だった。
「ハイ、裕美。これから朝会だ。そこに座って、聞いていなさい」
フランクは自分の席に着くとマイクロフォンをたぐり寄せてトークボタンを押した。
「諸君、おはよう。今日はインテグレーテッド・リソーシズを中立から買いに格上げする。目標価格をこれまでの十四ドルから十八ドルに引き上げる。来期業績予想の上方修正がその根拠だ。旧いEPSは3セント、新しい数字は5セント、旧い売上高は四千二百五十万ドル、新しい数字は五千百万ドルだ。次はフィギュアロア・オイルだ。格付けと業績に変更は無い。西海岸の精油所が緊急点検のために休止した。その背景についてメアリーから説明がある。次はケーブル&メディアだ。最近の加入者数の推移についてヴィヴィックから説明がある。最後はウエストコースト・セルラーだ。ネバダ州の周波数入札についてビルから説明がある」
トレーディング・ルーム中央の柱のところに演台があり、アナリストが次々に登壇して要点を説明した。
アナリスト一人当たりの持ち時間は五分ほどだった。
ひとりのアナリストがしゃべり終わるやいなや、セールスマンから質問攻めだ。
アナリストによってはセールスマンからなじられ、あからさまに馬鹿にされるものも居た。
(なんていじわるな人たちなの)
私はその応酬の激しさに、面喰った。
頃合いを見計らってフランクが「次の話題に行こう」と割って入った。
自分がこのトレーディング・ルームの中で最も未熟で、場違いな人間だということは間違いない。
トレーディング・ルームのど真ん中に陣取ったフランクは、明らかにこのフロア全体を支配していた。そのフランクに守られるカタチで机を並べているということの意味を、やっと呑み込む事が出来た。つまり私はフランクに弟子入りすることで、彼の、目に見えない盾によって護られることになるのだ。それは陰険なオフィスの人間関係や、周囲からの嘲笑に悩まされる心配がないということだ。

朝会が終わるとセールスマンは一斉に顧客のところへ電話し始めた。
彼らは先ず最も重要な客に電話を入れる。
そして二番目、三番目に重要な客という順序で電話してゆくのだ。
九時半のニューヨーク証券取引所の寄り付き、つまり取引開始時間までに全部の客に電話するのが理想だ。
このため朝会の終わる八時十五分から九時半まではとりわけ忙しい。
トレーディング・ルーム全体が「ぐわーん」という音に包まれている。
私は証券外務員試験の参考書を見ながら、フランクのセールストークに耳を傾けた。

ショーンフィールド&サンズでの最初の数カ月は極めて単調な生活だった。
それというのも証券外務員試験に合格するまでは営業に出ることが出来なかったからだ。
会社ではフランクの営業している様子を横で観察し、わからないことは質問した。
会社が終わると、会社とアパートの中間にあるセキュリティーズ・トレーニング・スクールという証券外務員試験の予備校で授業を受けた。
夜はアパートのキッチンで試験の参考書を自習した。
五月までは週末にケビンと会っていたが、試験日が迫って来ると週末もアパートにこもって勉強した。
その甲斐あって、六月の末に受けた証券外務員試験には一回で合格した。

合格通知をもらった後の、最初の週末、ニューヨークはうだるような暑さだった。
アパートの窓からハドソン川が見えた。
対岸のニュージャージーのビルの窓が朝日を反射してキラリと光っている。
私は白と紺色の縞模様のワンピースに、ベルトでアクセントをつけて、キャンバス・バッグを肩からかけた。
アパートを出て地下鉄レクター街駅に向かった。
日陰の段ボールの上に浮浪者が寝ていた。そばを通る時、酒臭かった。
アップタウン行きの地下鉄の入り口には、赤い丸印に数字の「1」が白抜きで書かれていた。
駅の階段を下りると、まとわりつくような暑さに包まれた。
一ドルでトークンを買った。
回転式改札口からプラットフォームに入った。
一番の地下鉄がカーブをきしみながら入ってきた。
冷房の効いていない車内は汗臭かった。
鉄製の座席は空席が多かったが、清掃が行き届いておらず、不潔そうだったので座るのをあきらめた。
アッパー・ウエスト・サイドの七十二丁目で降り、地上に出るとやっと深呼吸できる思いがした。
ブロードウェイを渡って、東に向かった。
ダコタ・アパートメントの前からセントラルパークに入った。
ようやく試験勉強から解放されたので気分は爽快だった。
その解放感を満喫するのに、夏の週末のセントラルパークほど適した場所は無い。
アイスクリーム売りのおじさんからアイスクリームを買って、ベンチでそれを食べた。
ケビンを誘ったが、今日はバイトで忙しいという。
彼はブロードウェイの古本屋、ストランドで働いているのだそうだ。
最近、クーパー・ユニオンの学生寮を出て、友人達と三人でアパートを借りたという。
私は試験準備が忙しかったので、未だケビンの新しいアパートは見ていなかった。

『いきなりニューヨークで面接しろと言われても、困ります』は2012年に発表したトレンディー・ドラマ仕立ての小説です。投資銀行、ドレクセル・バーナム・ランベールの崩壊を下地にしています。ティーザー(ちら見せ)連載ということで、小説全体の3分の1程度を、毎日更新することで無料公開します。


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