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同作品は2012年に発表したトレンディー・ドラマ仕立ての小説です。昔、ニューヨークのトライベッカに住んでいた頃、近くにモデル・アパートメントがあったことからヒントを得て執筆しました。ティーザー(ちら見せ)連載ということで、小説全体の3分の1程度を、毎日更新することで無料公開します。


第一章

長距離バスの車窓から夜明けのマンハッタンのシルエットが見えた。
待ってなさい、ニューヨーク! いま、行くからね。ケイラ・モルガンは窓ガラスに小さな子供のように鼻をくっつけて、そう心の中で叫んだ。
テネシー州メンフィスでバスに乗り込んだのは、一昨日の夜だった。延々二十九時間の強行軍である。バスの席は半分くらいしか埋まっていなかった。大半の乗客は目を閉じており、どの顔も疲れ果てていた。
バスは朝六時ちょうどに四十二丁目のポートオーソリティー・ターミナルに到着した。
ケイラは、袖を無造作に折り返した黒のコットン・ジャケット、ローライズのジーンズ、黒いウォーキングシューズという服装だった。
ピンク地に茶色と水色の水玉模様のついたリュックサックを「よいしょ!」と肩に掛けると、勢い良くバスから降り、すぐ目の前の女子トイレに入った。そこは掃除が行き届いておらず、不潔だった。
今日からは、どんな小さなチャンスも、パスしちゃだめ。ケイラは、そう自分に誓った。
洗面台の前でリュックサックのジッパーを開け、洗顔セットを取り出した。
胸の前に垂れ下がったブロンドの髪を「えいっ」と円弧を描くように一振りして肩の後ろに集め、束ねて巻き上げ、ヘアクリップで留めて、歯を磨き始めた。
それが終わると蛇口の冷水を出しっぱなしにして、バシャバシャ洗顔した。
ペーパータオルを二枚引きちぎって、顔を拭いた。
それから髪の毛を降ろし、ヘアブラシで丁寧にとかした。
「フーン……」
鏡の中の自分の顔を入念に点検した。
手に持ったヘアブラシを、ピストルを構えるように鏡の中の自分に向けて「お化粧は、してきては駄目って、注意書きがあったでしょう? 大丈夫、あなたなら、きっとやれる」と語りかけた。
ターミナル・ビル内のニュース・スタンドで、マンハッタンの地図を買った。
リュックサックの中から手帳を取り出し、住所を確認した。
ボールペンで地図に丸印を付けると、それを折り畳み、ジャケットの内ポケットに突っ込んだ。
エスカレーターを降り、地下鉄の乗り場に行き、ダウンタウン行きのAトレインに乗った。

ソーホーにあるフュージョン・モデル・エージェンシーのビルは、遠くからでも一目ですぐにそれとわかる建物だった。レンガ色のビルの側面には、七階建てのビルの上から下までをすっぽり覆う、ファッション・モデルの巨大な看板が掛かっていた。
オープンコールまでには未だかなり時間がある。オープンコールとは、飛び込みのオーディションのことだ。
さてと……場所も確認した事だし、スタバでも探すか? ケイラは急に体がカフェインを欲しがっていることを自覚した。
六月上旬の早朝のウエスト・ブロードウェイは清々しかった。この界隈はキャストアイアン建築のロフトが立ち並ぶ、お洒落な街だ。店の多くはブティックやアートギャラリーだった。未だ早い時間なので、殆どの店のシャッターは降りていた。
ケイラはスターバックスに入るとコーヒーとクロワッサンを買って、ソファに座った。リュックサックの中から、使い方によっては凶器にもなりそうな黒いスチレットヒールのパンプスを取り出した。ウォーキングシューズを脱ぎ、パンプスに履き替えた。プラスチックのショッピングバッグにウォーキングシューズを突っ込み、それをリュックサックに仕舞った。
ジャケットのポケットからゴールド・フレームのレイバンのアビエーター・サングラスを出し、それを鼻の上にひょいとのせた。
戦闘準備は完了だ。

ケイラはオープンコールの十分前にフュージョン・モデル・エージェンシーに行き、受付の階のボタンを押した。エレベーターを降りるとその先に受付が見えた。受付の床は白いペンキが塗ってあり、壁もまるで美術館の展示スペースのように純白だった。天井は剥き出しの木の梁が何本も走っていて、銀色の空調のダクトが剥き出しになっていた。一ダースほどのハロゲン・ランプのまぶしい光が、勝手な方向に放たれていた。
壁際に配置された三つの黒い革張りのソファには、既に十五歳から二十歳前後と思われる女の子が五人座って待っていた。その中には小脇にポートフォリオを抱えている子も居た。少女たちはお互いに目を合わせないようにしていた。どの顔も緊張していた。ケイラの育ったメンフィスでは、これだけきれいな娘が一度に一か所に集まるという事自体、考えられなかった。競争が熾烈であることは明らかだ。
黒いTシャツを着た男がやってきて「ハーイ、僕はマイケルだ」と自己紹介した。頭髪は短く刈り込まれており、耳たぶにイアリングをしていた。態度は気さくで、事務的だった。
少女たちはにっこり笑顔を返した。
マイケルは一番近くに居た娘に「ちょっと立ってくれる?」と言った。その言葉で少女は座っていた黒いソファから飛び上がった。
「うーん、きみはフュージョンの探しているルックスではないから、帰っていいよ」
そう言われたその少女は、恥ずかしそうにエレベーターの方に向けて歩いて行った。
このやりとりで、既にオーディションが始まっているという事実に気がついた他の女の子たちの表情は、一瞬にして引き締まった。
「どれ、次はきみを見てみようか」マイケルはそう言いながら次の娘の顔に見入った。
「どうもありがとう。キミも帰っていい」
そう言われた娘は、落胆をあらわにしながらソファから立ち上がった。
マイケルは小脇にポートフォリオを抱えた、自信に満ちた女の子を見た。
「きみのポートフォリオを見せてくれる?」
そう言われた女の子は得意そうにポートフォリオをマイケルに渡した。
「きみも帰っていい」
マイケルはポートフォリオを返しながら、そう言った。その少女はハイヒールをコツコツ言わせながら、苛立たしそうにエレベーターの方へ歩いて行った。
結局、そんな感じでケイラ以外の少女たちは全員、いなくなってしまった。


最後にケイラの番が来た。
ケイラはマイケルが自分を見ていることを確かめてから、面倒臭そうにサングラスを外し、胸のポケットに仕舞った。
「ちょっと立ってくれる?」
ソファから立ち上がった。
「ジャケットを脱いで」
黒いコットンのジャケットをサッと脱ぎ、人差し指に引っ掛け、肩の後ろに背負った。
白いチューブトップが露わになった。形の良い、大き過ぎない乳房のシルエットが服の上からハッキリわかった。剥き出しになった肩から背中にかけて、ほんのかすかにソバカスがあった。
ローライズのジーンズとチューブトップの組み合わせは、へその辺りのくびれを強調する効果があった。
「歩いてみてくれる?」
ケイラはジャケットを肩から背負ったまま、受付のエリアを歩いた。
「モデルをやった経験は?」
「ありません」
「ちょっとここに座って、待っていて」
そう言うとマイケルは小走りに別の部屋に消え、長髪に黒いセルロイドのフレームのボストン眼鏡をかけた東洋人を連れて戻ってきた。
「ハーイ、鉄夫だ。きみ、名前は何て言うの?」そう言いながら、彼女の前に片方の膝をついてしゃがんだ。ケイラの長い向こうずねが鉄夫の目の前にある。ケイラは脚を揃えて斜めに倒した姿勢で、背筋はピンと伸ばしていた。
「ケイラ・モルガン」
「幾つ?」
鉄夫はひざまずいた姿勢のままで真っ直ぐケイラを見て、注意深くその表情や仕草を観察した。
「十八」
「身長は?」
「五フィート十インチ」
「スリーサイズは?」
「三十三、二十三、三十四」
「出身は?」
「テネシー州メンフィス」
「ニューヨークではどこに泊っているの?」
「まだ決めていません」
「しばらく居るの?」
「さあ……数日かな」
「写真を持っている?」
「スナップ写真なら」
「見せて」
ケイラはリュックサックの中から写真を取りだした。
鉄夫はそれをじっくり観察した。
「きみはフォトジェニックだね」
そう言いながら鉄夫はその写真をそばに立っているマイケルに渡した。
「マイケル、ポラロイドを……僕はマルコを呼んでくる」鉄夫はそうマイケルに指示した。
そして「ちょっとここで待っていて」と言うなり、どこかへ消えた。
鉄夫はすぐに戻ってきた。五十歳前後の丸顔の小柄な男性と一緒だった。
「ハーイ、お嬢ちゃん。お名前は?」
「ケイラ・モルガン」
「マルコ・ボレリ、フュージョンの社長だ」
マルコが手を差し伸べたのでケイラはソファから立って握手した。
「はじめまして」
マイケルがポラロイドを持って、戻ってきた。
「白い壁を後ろにして立って」
マイケルはケイラの顔のすぐ近くにポラロイドを構えた。
「カメラを真っ直ぐ見て」
マイケルがシャッターを切ると写真機の前面からフィルムが吐き出された。
マイケルはそれをむしり取ると鉄夫に差し出し、またポラロイドをのぞき込んだ。
「今度は挑みかかるような感情を出して」
マイケルは次々にポラロイドのシャッターを切り、鉄夫とマルコはポラロイド写真とケイラを交互に見比べた。
「今度は甘い夢を見ている表情を作って」
「いいぞ、その調子だ」
「きれいだ」
「次は物思いに耽っている様子を」
「彼女にはモデルの才能があります」鉄夫がマルコにそう言った。
「向こうの壁まで歩いて!」マイケルが指示を出した。
ケイラは受付のエリアの端から端まで歩いて行った。
「ターンして!」
そう言われて振り返って元のところまで戻ってきた。
「歩きを練習する必要があるな」マイケルがそう言った。
鉄夫はそれに対して「それは何とでもなる」と答えた。
「指図に対する反応は良い」そう言ったのは鉄夫だ。
「フォトグラファーに気に入られやすいタイプだ」マイケルも同調した。
「表情を作るタイミングがバッチリだ」
「撮影を楽しんでいる」
「ムードは……今一つかな」
鉄夫とマイケルのやりとりは、まるでケイラが蝋人形であるかのような、本人の存在を無視したものだった。
「尖がりが足らないと思わないか? エディトリアルはきついな」そう言ったのはマイケルだ。
エディトリアルとはヴォーグなどの高級ファッション雑誌向けの撮影や、一流デザイナーのファッションショーでランウェイを歩くことを指す。エディトリアルのモデルには際立った個性が要求された。
「いけると思う……この子は突き放した態度だから、ランウェイで存在感が出る」
「最悪でもコマーシャルな素材であることは、疑いないね」
コマーシャルとはカタログなどに起用されるモデルを指す。エディトリアルの方がモデルの仕事としては格が上で、コマーシャルは見下されている。
「マルコ、マイケル、ちょっと……」鉄夫はそういうと会議室の方に首を振った。
「ここで待っていて呉れる?」マイケルはケイラにそう言うと、鉄夫とマルコの後を追って会議室に消えた。
ふう。ケイラはひとりになったのでホッとした。
「ちょっと会議室に来てもらえるかな」しばらくして鉄夫がケイラを呼びに来た。
マルコ、マイケル、鉄夫の三人に向かい合うかたちでケイラは座った。
マルコが口を開いた。
「早速だが、きみと契約を結びたいと思う」
「えっ、本当!」
「契約は三年だ。契約期間中は他のモデル・エージェンシーとかけもちできない。わかるね?」そう言ったのは鉄夫だ。
「はい」
「住むところは、ある?」
「いいえ」
「駆け出しのモデルには、モデル・アパートメントに入ってもらうことになっている」
「といいますと?」
「寮だ。他のモデルと共同生活になる」
「個室ではないのですね」
「そういうことだ。地方出身者は、大体、どのモデル・エージェンシーでもモデル・アパートメントから始めるのがこの業界の習わしだ」
「わかりました」
「モデル・アパートメントの費用は月額七百ドルだ」
「そんなに払えません」
「心配しなくていい。当分、その費用はモデル・エージェンシーへのツケということにすれば良い。後日、給料から差し引く」
「仕事、回って来るでしょうか?」
「それは心配しなくていい」
「コンプ・カード、モデル・ブックの印刷費用も、モデル負担だ」
「高いんですか?」
「コンプ・カードの印刷代は三百五十ドルくらいだ。それもツケにする」
「わかりました」
「それからモデルの仕事をしてクライアントからフィーを貰った場合、そのモデル料の二割はモデル・エージェンシーが取る事になっている。これは業界の慣習だ」
「わかりました」
「いつから働き始めることが出来る?」
「すぐにでも」
「メンフィスに一旦、帰る必要は無いの?」
「住むところさえあれば、必要なものはママに送ってもらいます」
「OK」
「それじゃマイケル、ケイティにモデル契約書を持ってくるように言ってくれる?」鉄夫にそう言われてマイケルは席を外した。
暫くするとマイケルがキャリアウーマン風の女性を伴って戻ってきた。
「ケイティ・ライアンです」
そう言ってケイティはケイラと握手した。
「これがモデル契約書です。ここと、ここにイニシャルを書いて、三枚目のここに署名してください」
ケイラはサラッと契約書の全部に目を通してから、言われた箇所にサインした。
「おめでとう! これできみは今日からフュージョンのモデルだ」マルコはそう言いながらテーブル越しに手を差し伸べ、ケイラと握手した。
「きみのブッカーは鉄夫にやってもらう」
マルコのその言葉で、鉄夫は椅子から立ち上がり、ケイラに手を差し出して、握手した。
ギュッと力のこもった握手に、ケイラは思わずハッとして鉄夫の顔を見直した。
「ブッカーって?」
「エージェントの事だ。営業マンだよ。鉄夫はウチのヘッド・ブッカーだ。今日から彼に仕事を教えてもらってくれ」