ジェラルド・サイはフィデリティで先ずアナリストになりますが、すぐにストック・ピッカーとしての才覚を顕します。サイは上司のエドワード・クロスビー・ジョンソン二世のことを「ミスター・ジョンソン」とラストネームで呼んだのだそうです。これはファーストネームで呼び合うアメリカのしきたりからすれば、少し違和感がありますが、東洋かぶれだったジョンソンは不必要なほどかしこまったサイのこの喋り方をとても気に入ったそうです。

サイは当時の事を次のように語っています:

ミスター・ジョンソンは他のボストンのファンドマネージャーと違ってすごく柔軟でした。それはつまり伝統というものにこだわらないということです。チーム運用とかコミッティーを嫌っていて、自由にやらせてくれました。その代わり、失敗しようものなら縄を呉れるんです。ほら、ここにロープがある。これでクビを吊れ! ってね。それが口癖でした。あと「バイオリンは、二人では弾けない」というのもミスター・ジョンソンの好きな表現でした。


1957年にジェラルド・サイが「そろそろ自分のファンドを持ちたいのですけど……」と言うと、ジョンソンはフィデリティ・キャピタル・ファンドという新ファンドを立ち上げることを許可しました。これはアメリカで最初の、公然としたモメンタム投資ファンドです。

1957年はソ連がスプートニク号の打ち上げに成功した年で、アメリカは「核爆弾をソ連のロケット技術を使って米本土に打ち込まれるのではないか?」という危機感を抱きました。

そこで宇宙開発機関に多額の予算が割り振られ、現在で言えばドットコム・ブームのようなことが航空宇宙ならびにエレクトロニクス関連の株式に起こります。

会社名に「~トロン」とか「~二クス」とついた企業の株は事業内容に関わりなく皆、相場になりました。

ハンガリー移民でボールルーム・ダンサーだったニコラス・ダーバスは僅か18ヶ月の間に245万ドル(当時)を儲け、株式投資指南役として引っ張りダコになります。いわゆる「ダーバス・ブーム」です。

そのような投資環境の下、ジェラルド・サイは最初から一握りの成長株に集中的に投資します。ゼロックス、リットン・インダストリーズ、ポラロイドといった、当時のグラマー・ストックを一度に一万株単位で買い、証券会社にジャン決めを強要しました。


ジャン決めというのは「一万株買いたいけど、お前のところなら幾らで作ってくれる?」とニューヨーク証券取引所に売買注文を通す前に証券会社のチーフ・トレーダーとの間で売買成立値段を折り合ってしまう方法です。言い換えれば証券会社がショートのポジションを「取らされる」わけです。

サイはバレエのダンサーのような優美さで、相場の転換点で売り抜けたり、また買い戻したりしました。フィデリティ・キャピタル・ファンドのポートフォリオ回転率は極めて高く、証券会社にとって重要な顧客になりました。

1962年にボウリング・ブームが天井を付け、下げ相場が来た時は、フィデリティ・キャピタル・ファンドも大損したのですが10月のキューバ危機で不安が最高潮に達した際、超強気に転じ、僅か3ヶ月足らずで68%という驚異的なパフォーマンスを出します。

1965年にジョンソンが65歳になり、フィデリティの社長を退く際、後任をジェラルド・サイにするか、それとも息子のネッド・ジョンソンにするかで揉めました。結局、ネッドが後を継ぐことが決まり、フィデリティは「ファミリー・ビジネスだ」ということがハッキリしました。(注:今でも、そうです)

それでジェラルド・サイはフィデリティを辞め、自分のファンドを立ち上げます。サイはマンハッタンの五番街の43丁目と44丁目の間、680フィフス・アベニューのオフィスタワーの中に事務所を借り、マンハッタン・ファンドを始めます。

マンハッタン・ファンドのオフィスはベージュ色のカーペットを敷きつめ、室内の温度は必ず12度にセットされました。これは「少々寒い方が社員の頭が冴える」という理由からです。

マンハッタン・ファンドは当初2,500万ドル程度を募集する計画でしたが、実際には2.47億ドルが集まり、最初からいきなり大手投信会社にも匹敵する規模での運用が始まりました。

1965年は投信会社設立ブームで、サイの他にも、若くて野心的なファンドマネージャーが次々に会社を設立しています。セキュリティ・エクイティ・ファンドのフレッド・アルジャーは当時三十歳、エンタープライズ・ファンドのフレッド・カーは三十五歳といった具合です。この他、バーニー・コーンフェルド、ドレイファスのハワード・スタインフレッド・メイツジョン・ハートウェルなどのファンドマネージャーが続々と起業しています。

マンハッタン・ファンドは1966年2月から運用を開始しました。67年のパフォーマンスはまずまず(+40%)でしたが、68年には最初の7ヶ月で-6.6%と市場をアンダー・パフォームし、全米の305ある投信のうち299位という不名誉なランキングになります。

そこでサイは(そろそろ足を洗おう)と決心し、シカゴの保険会社、CNAフィナンシャルに会社ごと売り渡してしまいます。

1969年から70年にかけてインフレになり、米国の金利が上昇すると当時人気になっていたナショナル・スチューデント・マーケティングなど、ごく一握りのモメンタム株が総崩れになり、その多くは80%以上も下落しました。

その意味ではサイが運用から身を引くタイミングは絶妙だったと言えます。

その後、ジェラルド・サイはアソシエート・マディソン・カンパニーズという生保の会長になりますが、この会社が1980年代にアメリカン・キャンという缶詰会社に買収され、サイはアメリカン・キャンの財務担当役員になります。そして1987年にはアメリカン・キャンはプライメリカに社名変更し、サイはそのCEOになります。これはダウ採用銘柄で初めて中国人トップが登場したことを意味します。

プライメリカは証券会社、スミスバーニーを買収し、ジェラルド・サイは再び投資の世界に戻るわけです。

その翌年、プライメリカはコマーシャル・クレジット・グループと合併します。コマーシャル・クレジット・グループはサンフォード・ワイルに率いられた会社で、サイはワイルに経営を任せ、一線を退きます。

その後、ワイルは92年に保険会社トラベラーズを買収、95年にはソロモン・ブラザーズを、そして98年にはシティコープと合併するわけです。

ところでジェラルド・サイはプライベートでは女優で『プラチナ・ブロンド』に出演したロレッタ・ヤング、『甘い生活』のアニタ・エクバーグなどと結婚、離婚を繰り返しました。

3
(ロレッタ・ヤング)

2
(アニタ・エクバーグ)

(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack

【お知らせ】
Market HackのFacebookページに「いいね」することで最新記事をサブスクライブすることができます。
これとは別にMarket Hack編集長、広瀬隆雄の個人のFacebookページもあります。こちらはお友達申請を出して頂ければすぐ承認します。(但し本名を使っている人のみ)
相場のこまごまとした材料のアップデートはMarket HackのFacebookページの方で行って行きたいと考えています。

モメンタム投資の開祖、ジェラルド・サイはノワール的なアブナイ魅力をプンプンさせたセレブ・ファンドマネージャーだった 1/2