日本のモノ作りは世界最高だと思います。

でもモノ作りは、それを使う人の価値観、経済的条件、文化などの制約条件を色濃く反映するし、それらの条件と上手く融和して初めて素晴らしい成果をもたらすのです。

日本人のデザインが、ひとつの頂点を極めた例として、零戦を挙げる事が出来ると思います。そこでこれを例にモノ作りのDNAについて論じてゆきたいと思います。

昔、誰かの書いた本で「零戦とグラマン……この設計思想の違いは、後の両国のクルマ作りにもあらわれている」という議論を読み(なるほどな)と思いました。

その本が手元に無いし、僕は外国住まいなので、ちょっと図書館へ行って調べるとか出来ないので紹介できないのが残念だけど、そこに書かれていた主張は、基本、間違ってないと思います。ただ、制約条件を巡る議論は、もっと深いし、広範に渡ります。

太平洋戦争が始まった時点での日本の軍備はアメリカとの相対比較で最も優位でした。日本の空母は最先端の技術を盛り込んでいたし、零戦は性能の面でアメリカの戦闘機を圧倒していました。

この時点での日本の軍備は「質」ならびに「量」の面で優位であっただけでなく、いろいろな制約条件に照らして「適切」なラインナップでした。

その制約条件のひとつは、日本が資源に乏しいということです。資源を確保するためには東南アジア(=いまのマレーシア、インドネシア、ミャンマーなど)まで出てゆく必要がありました。

作戦範囲が広いので、飛行機の航続距離は長くなくてはいけません。燃費の良さに重点を置いて零戦が設計されたのはこのためです。

でもひとつの性能を追求すると、他の特性を犠牲にしなくてはいけないということが起こります。零戦の場合、パイロットを守る防御力は弱かったです。なぜなら防弾のための鉄板などを入れると重量が重くなり、遠くへ飛ぶ能力が低下するからです。

このような「こちらを立てれば、あちらが立たず」という関係をトレードオフといいます。全ての製品にはトレードオフが発生しますが、航空機ほど過酷なトレードオフに晒されるものも少ないと思います。

たとえばエンジンです。

零戦のエンジンは中島飛行機という会社の「栄」という空冷星型エンジンです。このエンジンはフランスのノーム・エ・ローヌ(Gnome et Rhone)から1936年にライセンス導入されたものです。(三菱がアメリカのプラット&ホイットニーからライトのライセンシング契約をしたのはその一年後、1937年です)

空冷星型は「ラジアル」と呼ばれることもありますが、シリンダーを放射状に配列したエンジンです。その特徴はシリンダーが空気で冷やされる点にあります。

空冷星型エンジンと対比されるのが液冷直列エンジンです。(液冷V型エンジンも、概念的には液冷直列エンジンとおなじです。両者をひと括りに「インライン」エンジンと呼びます)

液冷直列エンジンは冷却水(クーラント)を循環させることでエンジンを冷やします。すると冷却水やオイルが漏れないように極めて堅牢な「箱」を持つ必要があります。

インラインは長いスリムな形状をしているので先のとがったスマートな機体設計を可能にします。具体的な例では英国の戦闘機、スピットファイアやドイツのメッサーシュミットBf109がインライン型エンジンを搭載しています。

乱暴に言えば、インラインは堅牢な鉄の箱を持たなければいけないので重いです。ラジアルは軽くて信頼性が高いので空母からの発艦に適しています。零戦だけでなくアメリカのヘルキャットやドーントレスなど、空母で運用される海軍の飛行機の大半がラジアルを採用したのはそのためです。

これに対して米国陸軍航空隊の戦闘機はP-47サンダーボルトという唯一の例外を除けば全てインラインを採用しています。

第一次大戦の頃は欧州で航空機エンジンの進歩が著しかったのですが、当時のエンジン作りは職人芸的な色彩が強く、大量生産に向きませんでした。

アメリカで最初に作られた優れたエンジンはカーチスのD-12というインライン・エンジンです。英国空軍(RAF)はD-12のデザインをもとに国産の優れたインライン・エンジンの開発を指示します。そうして出来あがったのがロールスロイス・ケストレルです。

RAFはドイツのハインケルの単葉郵便飛行機を購入し、それにロールスロイス・ケストレル・エンジンを搭載して試験飛行してみました。その結果、RAFのどの飛行機より速く飛べることがわかりました。複葉機の時代が終わったのです。


ドイツの一部の軍関係者はRAFのこの試験飛行のニュースを伝え聞いて「早く優れたインライン・エンジンを開発する必要がある」と主張します。しかし上層部がそれを信じなかったので開発途中のメッサーシュミットBf109にロールスロイス・ケストレル・エンジンを搭載してデモ飛行し、「わが国のエンジンは負けている!」ということをアピールします。

つまり各国は純国産にこだわるのではなく、最高の技術が他国にあるのなら、プラグマチックにアイデアを盗み、あるいは協業したのです。

ロールスロイス・ケストレルは1927年にデビューしたのですが470馬力でした。これに対してその発展型であるロールスロイス・マーリンは1936年に登場し、1,050馬力でした。ロールスロイス・マーリンはのちにスピットファイア、マスタングなどに採用されます。ロールスロイス・マーリンの製造面での問題点は職人芸に依存し、大量生産に向いていなかった点です。

ドイツは国策として空軍力に大きな予算を割く方針であり、また職人芸的なやり方から脱却し、大量生産に向かうことを標榜していました。イギリスのエンジンに追いつこうとする最初の試みが1936年に完成したユンカース・ユモ210です。

ドイツのエンジンの特徴は大容積で重くなっても構わないので、パワフルで信頼性が高く、大量生産しやすいエンジンを作るという発想でした。そして1938年にはダイムラー・ベンツが液冷式倒立V型エンジンDB600を完成します。DB600は基本設計的には凡庸でしたが、最初の燃料直接噴射装置を採用し、このような小さな工夫の積み重ねで良いエンジンという評価を勝ち取りました。

後期のダイムラー・ベンツのエンジンはDB605のように1,800馬力も出るパワフルなものが開発されましたが、メッサーシュミットBf109の小さめな機体に搭載するとバランスが悪かったです。

アメリカのインライン・エンジンで最も有名なのはアリソンです。アリソンは標準的なV型で、極めて円滑で信頼性の高いエンジンでしたが重量当たりのパフォーマンスは平凡でした。ノースロップ社が開発したP-51は当初アリソンを搭載していたのですがパフォーマンスはいまひとつでした。RAFがエンジンを二段式過給機(スーパーチャージャー)を備えたロールスロイス・マーリンに交換したところ、P-51マスタングはインライン・エンジンを搭載した戦闘機の最高傑作に生まれ変わります。

アメリカはロールスロイス・マーリンをライセンス生産するのですが、イギリスはその図面の受渡しの際にわざわざ軍艦をアメリカまで送りました。またマーリンの図面は大きなクレート(木箱)一杯になるほど複雑であり、大型クレーンをつかって岸壁に下ろさなければいけなかったと言われます。

このマーリンの量産の任務を受けたのはヘンリー・フォードのもとで「モデルT」の生産ラインを作ったビル・ヌドセンですが、マーリンの図面は職人芸で作ることを念頭に置かれていたため、米国の工作機械で熟練工でなくても大量生産できるよう、ヌドセンは全部、図面を引き直したそうです。

アメリカ陸軍がインライン・エンジンを中心に航空機を開発していたのに対し、アメリカ海軍はラジアル・エンジンの開発を後押しします。冒頭で述べたようにラジアル・エンジンは出力対重量比に優れており、それは航空機を設計する際、より低速での着艦を可能にするので、空母を中心とした海軍はラジアル・エンジンの企業育成に力を入れます。

当時すでに支配的な航空機メーカーになっていたライトに、チャールズ・ローレンスという卓越したエンジニアが主宰するちいさなベンチャー企業を買収させ、この買収からライトJ-5ワールウインドというエンジンが生まれます。このエンジンはチャールズ・リンドバーグの大西洋横断の際、「スピリット・オブ・セントルイス」号に搭載されたものです。

しかしライトは成功した企業が陥りがちな「あれもこれも」という欲張りな企業戦略を取りはじめ、始めるプロジェクトはどれも中途半端で終わってしまいます。この経営方針に不満を持っていたラジアル・エンジンのエンジニア、フレデリック・レンシラーに対し、アメリカ海軍は「独立するなら、支援してやる」とこっそり支援し、プラット&ホイットニーが誕生します。レンシラーはデカいラジアル・エンジンの開発に情熱を持っており、450馬力のWASPエンジンを発表します。

ライトはこの脱藩者の成功に驚き、急いで「サイクロン」というラジアル・エンジンを開発します。このサイクロンもWASP同様、大変優れたエンジンで、この二つのブランドがアメリカのラジアル・エンジンの系譜を作ってゆくわけです。

ドイツは当初インライン・エンジンばかりに注力していたのですが、1930年にBMWがプラット&ホイットニーからWASPをライセンス導入します。これは後にBMW801エンジンとなり、フォッケウルフFw190に搭載されます。それまでのドイツの飛行機作りは「兎に角、パワフルなエンジンを搭載し、機体は小さければ小さいほど良い」という発想で、前線での劣悪な操業条件を念頭に入れていませんでした。航空機設計者クルト・タンクは「凸凹な滑走路、メンテナンスに時間が割けないなどの条件でも、信頼できる戦闘機を作りたい」という考えからFw190を作ったわけです。

Bf109とFw190という、設計理念が根本から異なる二種類の戦闘機を得たドイツは、結局、零戦の成功から抜け出せなかった日本と比べて空の戦いに限って言えば最後まで連合国を苦しめました。

日本の場合、零戦に搭載された「栄」エンジンは、後に改良が加えられ、パワフルになるほど航続距離が犠牲になるというトレードオフを生みました。零戦が長期の消耗戦で最も必要とされ、活躍したのはニューブリテン島のラバウル基地ですが、そこは敵の基地までの距離が長く、航続距離ギリギリの戦いを強いられることが多かったです。しかし日本から補給される新しい零戦になるほど航続距離が短いので作戦に参加できないという問題を抱えていました。

この前線の現場でのフィードバックが、後方での改良に生かされなかった点は、日本のじり貧の一因を作りました。

零戦は機体が軽いし翼面積が大きいので揚力が大きい利点がありましたが、それは裏を返せば急降下パフォーマンスは悪いということを意味します。またスペック上では3万2千フィートまで上昇できるとなっていますが高度が高くなると空気が薄くなるので翼面積が大きいことからくる揚力の利点は漸減します。つまり高高度ではP-51のように翼が小さく、エンジンが強力な戦闘機の方が有利なのです。零戦の場合、高度1万5千フィート辺りで運動性能が落ち始め、1943年以降にデビューしたP-47やP-51Bのような高度2万フィート以上で最高のパフォーマンスを出すように設計された戦闘機にはぜんぜん太刀打ち出来ませんでした。

太平洋戦争の空の戦いは、当初の「平面の戦い」から「垂直の戦い」へとシフトしてゆきます。つまり当初は「どれだけ遠くへ飛べるか?」とか「低高度で、どれだけ旋回半径が小さいか」などのパフォーマンス指標が鍵を握ったわけですが、B17やB29などの、高高度で活動できる爆撃機がアメリカの作戦の中心となると零戦では全く不十分になってしまいます。つまり太平洋戦争の後半では色々な制約条件がシフトし、日本の軍備はもはやそれらの条件にフィットしなくなっていたのです。

【まとめ】
1.モノ作りは制約条件と上手く融和して初めて素晴らしい成果を出す
2.全ての製品開発にはトレードオフが発生する
3.最高の技術が他国にあるならプラグマチックなアプローチで模倣する
4.アメリカとドイツは職人芸的な生産プロセスから脱却し、大量生産を指向した
5.日本は設計理念の多様化に移行できなかった
6.前線でのフィードバックが後方の製品改良に生かされなかった


(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack

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