あの日のことは、よく覚えています。

今から25年前の1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊しました。当時僕はS.G.ウォーバーグというイギリスの証券会社に勤めていて、たまたま出張で日本に行っていました。「ベルリンの壁が倒壊したぞ!」というニュースで東京証券取引所に上場されていたドイツ銀行の株式は、空前の大商いになりました。

兎に角、東京のトレーディング・ルームの電話が鳴り止まないのです!

機関投資家からの注文がどんどん入って、伝票整理すら出来ない状態になりました。欧州株のチームは徹夜で約定報告をなんとか済ませ、夜が明けると、またベルリンの情勢が進展していて、怒涛のような注文が舞い込む……それの繰り返しです。

さて、そもそもベルリンの壁はどうして出来て、なぜそれが崩壊したのでしょうか?

25年経った今、ドイツとヨーロッパが直面する問題はなんでしょうか? 今日はそれらのことを整理したいと思います。

第二次世界大戦でドイツが敗戦した直後、敗戦国ドイツは連合国の占領下に置かれました。そのときの連合国のメンバーは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連です。

第二次大戦を同じ側で戦い、本来、仲良しじゃないといけない筈のアメリカとソ連は、すぐに反目しはじめます。

1947年にロンドンで連合国の四か国外相会議が開催されるのですが、これが決裂します。

その時点で、アメリカ、イギリス、フランスの三国は、彼らの軍隊が駐屯していた西ドイツの守備を固め、一方、ソ連はソ連軍が駐屯していた東ドイツに居座ります。双方睨み合いの構図が出来てしまったわけです。

ベルリンという街は、東ドイツの奥深くに位置しているわけですが、もともとの首都だったこともあり、特別に街の西半分をアメリカ、イギリス、フランスの三国の兵隊が警備し、東半分はソ連が警備していました。

ソ連は(この際、西ベルリンのアメリカ、イギリス、フランスからなる守備兵にはお引き取り願おう)と考えます。そこで西ベルリンに通じるすべての道路を遮断し、いわゆる「ベルリン封鎖」を行います。

突然、兵糧攻めに遭い、西ベルリン市民は餓死する可能性が出ました。

そこでアメリカは戦車を派遣し、ベルリンに攻めこむ事を検討します。でもそうすると第三次世界大戦が始まってしまいます。

結局、アメリカは西ベルリンの空港に、どんどん食料や物資を空から運び込むという方法で、兵糧攻めを破る方法を考え出します。これが11か月に渡る「ベルリン空輸」と呼ばれる大空輸作戦です。このとき西側の輸送機は27万回着陸し、234万トンの食糧や物資が送り込まれました。ソ連は封鎖が失敗に終わったことを認め、西ドイツへの物資の陸送を許可します。

その後ソ連は東ベルリンから西ベルリンに亡命する人々が後を絶たないことに業を煮やし、1961年に「ベルリンの壁」を建設するのです。

それ以来、1989年まで西ベルリンは収容所のようにぐるりと周囲を塀で囲まれた、陸の孤島になります。

一方、ソ連経済は1980年代に入ると停滞しはじめ、ミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長はペレストロイカを唱え、社会主義の枠内でソ連の政治経済を立て直すことを試みます。

しかし情報の公開(グラスノスチ)はポーランドやハンガリーなどで市民の覚醒と民族主義運動の勃興を誘発し、次第に衛星国の箍(たが)が外れはじめます。

当時ソ連は石油サービス機器の供給をソ連の石油産業発祥の地、バクー油田のあるアゼルバイジャンに依存していました。民族運動や罷業が激しくなるとソ連各地の油田に交換部品が届かなくなり、原油生産に異変が起こります。

1

ソ連は衛星国にタダ同然のエネルギーを供給することで、事実上の「補助金」を与えていたわけですから、「燃料の切れ目が、縁の切れ目」となり、モスクワの求心力は急速に失われました。


自由を求める市民の怒涛のような勢いを、ソ連が食い止められなかったのには、そういう理由があります。

こうしてドイツは悲願の東西ドイツの統一を達成するわけです。

折から欧州連合は1992年に「コモン・マーケット」と呼ばれる、人・モノ・カネの欧州内での行き来を自由化するイニシアチブを推し進めている時でした。ベルリンの壁崩壊で大きな、強いドイツが出現すると、周辺のフランスなどは途端に昔の不安が再燃します。

(この際、ヨーロッパ全体がひとつになった方が、強いドイツの台頭を許すよりマシだ)

そういう考えから欧州連合の運動に拍車がかかったわけです。

さて、あれから25年経った今、欧州連合は曲がりなりにも機能していると言えるでしょう。共通通貨、ユーロ(€)も使い始めたことだし、域内での人の動きも自由化されています。

ドイツにとって目下の課題は旧東ドイツと旧西ドイツの融合ではありません。低迷する欧州経済の中で、どうやってリーダーシップを発揮してゆくか? ということが課題です。

失業率ひとつを取ってみても、ドイツと南欧諸国では全く状況が異なります。

2

そのことはポルトガル、ギリシャ、スペインなどの国々から、最も優秀な若者が職を求めてドイツになだれ込むという現象を引き起こしています。

折からドイツは少子化、高齢化の問題を抱えているので、若くて優秀な労働力の流入は歓迎すべきところです。

ポルトガルやギリシャなどの、今、経済がとても悪い国にしてみれば、若者の失業者の面倒を見る負担が減るので「口減らし」は好都合です。

しかし長期的に見ればドイツの労働力の競争力はどんどん増し、周辺の国々は老人ばかりになるという危険を孕んでいるのです。


【関連する記事】
ドイツの奇跡の復興とEUのおいたち(1/4)
ドイツの奇跡の復興とEUのおいたち(2/4)
ドイツの奇跡の復興とEUのおいたち(3/4)
ドイツの奇跡の復興とEUのおいたち(4/4)