Market Hackでは、時事ニュースに絡めて、時折、歴史について書きます。

これはあくまでも投資を進める上で我々が最低限知っておくべき知識のリフレッシュの意味で書くのであって、オピニオンではありません。

最近、シビリアン・コントロール(文民統制)という言葉をニュースで目にすることが多いです。日本でシビリアン・コントロールが最も激しく試されたケースは、やっぱり第二次世界大戦を置いて他にないでしょう。

そこでちょっと重いテーマだけど、日本が太平洋戦争に邁進してしまった経緯を書いてみる気になりました。

まず出発点として、第一次大戦直後の状況から説明したいと思います。

当時、アメリカと日本は友好国でした。日本は日英同盟を結んでいたし、英国と米国は第一次大戦を同じ側で戦ったからです。

第一次大戦が終わった後、世界には重要なシフトが起こりました。そのシフトとは、ヨーロッパ全体の経済・軍事力が凋落を見て、代わりに日本の存在感が増したということです。

日本は、それまで世界でいちばん強いとされてきた英国海軍をお手本にしてきました。でも英国海軍はドイツ海軍に対して実質的に負けを喫し、威信が失墜しました。有名な超弩級の戦艦は1,000発以上の砲撃をして命中弾はわずか70発程度だったそうです。

強いと思った英国海軍が強くなかった……これは日本にとって「師匠を失った瞬間」です。1920年代初頭に、日英同盟の期限更新が来たとき、日本があっさり同盟の解消を決断した一因は、そこにあると思います。

一方、ドイツ海軍はユトランド沖海戦では英国に勝ったわけですが、残存艦数が少なくなってしまったため、それ以降、英国海軍との対決は避けました。終戦後、ドイツの艦船の多くはスクラップ処分を命ぜられました。

さて、この頃の世界経済は、まだ帝国主義という考え方にもとづいて動いていました。列強は自分の植民地のポートフォリオを増やすことで、閉じた経済圏を形成していったわけです。イギリスやフランスのように、早くからこのゲームに乗り出していった国もあれば、ドイツ、日本、アメリカのように「遅れてきた」国々もあります。

アメリカは植民地を積極的に獲得するというよりは、オープンドア・ポリシー(門戸開放政策)という概念に基づき、自由貿易を主張しました。

日本はイギリスやフランスに倣って、経済圏の形成を目指します。ます1894年から95年の日清戦争で台湾が日本の支配下に入りました。次に日露戦争に勝った後、1910年に朝鮮半島を手に入れました。さらに1914年、日本は第一次大戦に英・米側として参戦。ドイツが持っていた青島、山東半島の権益を奪取、さらにグアムを除くマリアナ諸島、ヤップ島、パラオ、トラック諸島からなるカロリン諸島マーシャル諸島も獲得しました。

そして1915年に「対華二十一か条」の要求を突き付けるわけですが、これが米国のオープンドア・ポリシーとぶつかり合います。アメリカから抗議されて、日本は一旦、これを引っ込めました。 

第一次世界大戦終結後の、1919年のパリ講和会議で、日本はドイツから奪取した中国における権益を条約上で正式に認識されました。

1922年、ワシントン会議が開催され、日本は5・5・3の艦船保有比率、山東半島の中国への返還、9カ国条約への調印に合意します。これは列強が軍縮に合意した稀なケースですが、当時は第一次大戦後で欧米に厭戦ムードがあったことが成功の背景にあります。日本もその時代の流れに調子を合わせることで、列強の、責任あるメンバーのひとりであるという、ステータスをアピールすることに成功します。

なお、当時の日本の予算に占める軍事費は40%を超えており、高水準の軍備への投資は、サステイナブルではないという認識が、軍関係者の中にもあったことは事実です。実際、1918年の米騒動の記憶も新しく、日本はギリギリのところで歯を食いしばって軍拡していたわけで、アメリカやイギリスが軍拡をストップするのは、むしろ一息つくことが出来るので好都合と言う側面もあったと思います。それと、この当時は日本もシビリアン・コントロールが有効に機能していたと評価できると思います。

しかし1924年になると米国が日本人排斥の意図を持つ移民法を可決します。このへんから雲行きがだんだんおかしくなるわけです。

日本はワシントン軍縮条約の5・5・3規定は皇軍の権利の侵害だと感じます。実は上に述べたような経済上の理由から、5・5・3規定が日本にとっても、都合の良い取り決めであることは知っていたけれど、ここでシビリアン・コントロールがこれ以上、力を増しては困ると考える軍関係者も率直に言えば居たということです。

1931年、関東軍が満鉄爆破事件(いわゆる柳条湖事件)を起こします。リットン調査団が派遣され、この事件を非難された日本は国際連盟を脱退します。歴史学者はこの事件を日本のシビリアン・コントロールの実質的な終焉と位置付けています。


なお満州事変が起きても米国の世論と大統領はアジアに無関心でした。1933年にフランクリン・ルーズベルト大統領が就任すると、ようやく海軍力の増強が始まりました。その理由は、国防上の理由というよりも不況対策という色彩が強かったです。1934年のトラメル=ヴィンソン法により、老朽艦を新造船に入れ替えることが決まりました。そしてワシントン条約で米国が許されている保有艦の上限ギリギリまで持って行くことが決まりました。

1937年7月には盧溝橋事件が起こります。アメリカの議会は、日本への石油の販売を禁止することを検討しますが、それをやると1911年以来継続している日米通商航海条約の規定にそむくことになるので、これに踏み切れませんでした。つまり条約があるかぎり、アメリカの気分ひとつで「石油は、売りません!」とは言えなかったのです。これは例えばTPPを考える上で大いに研究すべき点です。因みに今は米議会の気分ひとつで天然ガスの輸出施設の許可を却下したりキャンセルすることができます。TPPを結べば、NOとは言えません。

1930年と35年に2度に渡ってロンドン軍縮会議が開かれますが、このときは既にワシントン会議の当時のような協調的ムードは無く、日本は第2回の軍縮会議を脱退します。

これ以降、空母を中心に建艦のペースが早まるわけです。日本のドックは性能の良い最新式の艦船を建艦できましたが、大量生産の手法は最後まで学ばれませんでした。また物資素材が不足した場合、それを補いながら戦力を維持する方法も、まったく考案されませんでした。

第二次世界大戦で、ドイツが昼夜に渡る激しい爆撃を受けながら、終戦まで兵器の生産量がぜんぜん落ちなかったのに比べると、日本は開戦して間もなく生産性が著しく低下した全然生産を伸ばせなかったのは注目すべき点だと思います。(記事の末尾にUSSBSのデータを追加しておきました)

1938年12月4日以降、日本は218回に渡る重慶爆撃を行います。特に1939年7月6日の爆撃では米国大使館に近い教会に爆弾が落ち、これがきっかけでルーズベルト大統領は日米通商航海条約の破棄を決断します。

当時の日本のエネルギー事情はどうだったのでしょうか?

1940年の1年間の日本の原油輸入は3716万バレル、一方、1941年の日本の国内原油生産は310万バレルという記録があります。つまり国内生産は年間消費量の12%のみ。逆の見方をすれば日本の石油輸入依存度は88%ということになります。このうち80%がアメリカからの輸入でした

なお上の輸入データでは日本は開戦を見越して備蓄をすすめようとしていたため、実際の年間消費量は2,600バレル程度だったと思います。

つまりアメリカからの石油がストップすれば、早く代替供給元を確保しない限り、1年くらいで海軍は動けなくなってしまうわけです。日本海軍が開戦の判断に慎重を期していた理由は、ここにあります。

なお、当時日本の海軍と陸軍との関係は、冷たいものでした。中国では揚陸作戦における抵抗は殆ど無かったため、陸海軍の共同の必要は殆どありませんでした。また陸軍と海軍ではカルチャーや、世界を見る目に大きな隔たりがあったと思います。

当時の海軍のリーダーシップは、伏見宮博恭王元帥海軍大将ですが、彼は日独伊三国同盟(1940年9月締結)に反対でした。また山本五十六も反対派です。これに対して陸軍大将、板垣征四郎は日独伊三国同盟に賛成派でした。

このように日本の軍部内で意見が割れる中、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップらと日独伊三国同盟の交渉が進められるのですが、当初この交渉が不調だったので、ヒトラーとリッベントロップは独ソ不可侵条約(1939年8月)を締結、日本へのさやあてとしたわけです。

このニュースがもたらされると、日本には「ソ連がヨーロッパの兵力を極東にシフトするのではないか」という懸念が走りました。1941年4月13日に日ソ中立条約を結んだのはこのためです。

1941年7月26日、ルーズベルト大統領が日本の資産の凍結を発表します。日本への原油の輸出も禁止されます。ちょうど現在、アメリカなどがイランに対して経済制裁しているのと同じようなカタチで、アメリカに預金されていた日本の資金にもアクセスできなくなりました。日本がボルネオでシェルから買いつけようとしていた石油も、代金の支払いのための預金がアメリカにあったので買えなくなってしまったのです。

当時、アジアにおける権益は、主にイギリスとフランスが持っていました。第二次世界大戦の火ぶたを切ったドイツが、イギリスやフランスに勝利すれば、アジアに権力の真空が生じます。とうとうアメリカから石油の輸入を止められてしまったわけだし、代替ソースを確保するには今しかない! という判断に至ったのは、このためです。

そういうわけで、当時の日本の戦争の目的は(少なくとも海軍に関する限り)フィリピン、ボルネオ、英領マラヤ(シンガポールを含む)、スマトラ、ジャワを占領することでした。特にジャワが重要でした。そして、2年間、持ちこたえて、アメリカはじめ列強に現状を認知させるのが狙いでした。

それではなぜわざわざ真珠湾まで出て行ったのか?

1940年までは日本の計画は連合艦隊を日本の近海にとめおくという方法でした。一方、米国はマーシャル諸島、カロリン諸島を経てフィリピンまで取りに行くという作戦計画を持っていました。両国が、これをその通りに戦っていれば、多分日本が勝っていたと思います。

当初、空母は戦艦の防衛のためという考えが主流でした。しかし1938年頃から、敵陣奥深くへ攻撃するために空母を使うという方法が編み出されました。翔鶴は、そういう考えから建艦されました。つまり、「先ず叩いておいてから、守る」というわけです。

開戦時の日本の保有空母数は10、一方アメリカは8、そのうち太平洋には3隻が配備されていました。

数の上でも、質の上でも、士気も面でも、さらに訓練という面でも連合艦隊の方がアメリカより優れていました。特に航空機の性能はアメリカ側を「あっ」と言わせました。作戦に先立ち、日本の海軍は常に天候の悪いところ、条件の厳しいところを選んで軍事演習を行いました。これはひとつには秘密裏に演習するためです。これと対照的に米国海軍は主に南方の、気候の良いところを選んで訓練しました。つまりやっている事がヌルいわけです。そのへんにも両者の緒戦の準備には、大きな差があったと言えます。


真珠湾攻撃には全部で423機の航空機が投入されています。そのうち30機は空母の上空をパトロール、40機は温存されたので353機が真珠湾を目指しました。97式艦上攻撃機(中島B5N)の場合、真珠湾では100機が高高度爆撃、40機が魚雷攻撃に投入されました。99式艦上爆撃機(愛知D3A)の場合、真珠湾では131機が急降下爆撃に参加しています。また零式戦闘機は79機が投入されました。

これらの攻撃機、爆撃機のターゲットへの命中率を見ると、冒頭に紹介したイギリス対ドイツのユトランド沖海戦のときよりはるかに効果的であり、空母を利用した空からの攻撃が戦艦を主体とした大艦巨砲主義より勝っていることがわかります。言い換えればこの時点で戦艦というコンセプト自体が、時代遅れになったのです。

なお様々な戦術のうち、最も確実なやり方は急降下爆撃でした。のちにミッドウェー海戦で帝国海軍が「魔の四分間」に三隻の空母を失ったのも、やはり急降下爆撃でした。

総括すれば、連合艦隊は、数の上でも、質の上でも、士気も面でも、さらに訓練という面でもアメリカ海軍を圧倒していました。しかし燃料確保の見通しに関しては、甘かったと言う他ありません。また開戦後の工場のアウトプットが日本だけ極めて低かったのは、「資源が無かったから」だけでは済まされないと思います。

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シビリアン・コントロールは、産業界を含めた「民間からのインプット」をも意味します。開戦後、日米間で急速に差が付いてしまったのは、このへんも関係しているのではないでしょうか?
(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack

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