日本の少子高齢化問題解決の切り札として外国人労働者の受け入れが議論されています。これに加えて東京オリンピックに向けた建設ブームも予想されることから、議論が熱を帯びています。
この問題を考える際、逆の立場、つまり労働者として海外へ渡った日本人たちの過去を学ぶことで外国人労働者を受け入れる際に気をつけないといけないポイントが明瞭になります。
【受入国側の都合で、門戸が開かれる】
アメリカがメキシコと戦争してカリフォルニアを手に入れたのは1847年でした。その翌年、ジェームズ・マーシャルという大工がカリフォルニアのサクラメントの近くの川で金塊を発見します。
カリフォルニアは日本の1.12倍の面積があります。そんな広大な土地に、アメリカ人は僅か1万人程度しか住んでいませんでした。大部分の土地は、誰の所有でもなく(*)、先に「ここは俺の土地だ!」と宣言したものが一山当てることが出来たのです。これがゴールドラッシュのはじまりです。
さて、ゴールドラッシュが起きると金山で働く労働力が不足します。このためアメリカ人は中国から炭鉱労働者を受け入れ始めます。これがアメリカに中国人が渡るようになったキッカケです。
(*)これは厳密に言えば先住民であるメキシコ人やインディアンの土地だったわけですが。
【危ない仕事をストイックにこなした中国人】
中国人は危ない仕事をストイックにこなしました。なかでも大陸横断鉄道の敷設に際しては、シエラネバダ山脈の切り立った崖によじのぼり、ダイナマイトを仕掛けて爆破するというリスキーな作業に携わりました。

サクラメントにあるカリフォルニア州立鉄道博物館へ行くと、こんにちでもその展示があります。
そして1869年に大陸横断鉄道が開通します。
ところが大陸横断鉄道が出来てしまえば、もう中国人建設労働者には用はありません。仕事にあぶれた中国人と、「我々の職を奪っている」と考えたアイルランド系の住民の間でいざこざが起こります。
この問題を考える際、逆の立場、つまり労働者として海外へ渡った日本人たちの過去を学ぶことで外国人労働者を受け入れる際に気をつけないといけないポイントが明瞭になります。
【受入国側の都合で、門戸が開かれる】
アメリカがメキシコと戦争してカリフォルニアを手に入れたのは1847年でした。その翌年、ジェームズ・マーシャルという大工がカリフォルニアのサクラメントの近くの川で金塊を発見します。
カリフォルニアは日本の1.12倍の面積があります。そんな広大な土地に、アメリカ人は僅か1万人程度しか住んでいませんでした。大部分の土地は、誰の所有でもなく(*)、先に「ここは俺の土地だ!」と宣言したものが一山当てることが出来たのです。これがゴールドラッシュのはじまりです。
さて、ゴールドラッシュが起きると金山で働く労働力が不足します。このためアメリカ人は中国から炭鉱労働者を受け入れ始めます。これがアメリカに中国人が渡るようになったキッカケです。
(*)これは厳密に言えば先住民であるメキシコ人やインディアンの土地だったわけですが。
【危ない仕事をストイックにこなした中国人】
中国人は危ない仕事をストイックにこなしました。なかでも大陸横断鉄道の敷設に際しては、シエラネバダ山脈の切り立った崖によじのぼり、ダイナマイトを仕掛けて爆破するというリスキーな作業に携わりました。

サクラメントにあるカリフォルニア州立鉄道博物館へ行くと、こんにちでもその展示があります。
そして1869年に大陸横断鉄道が開通します。
ところが大陸横断鉄道が出来てしまえば、もう中国人建設労働者には用はありません。仕事にあぶれた中国人と、「我々の職を奪っている」と考えたアイルランド系の住民の間でいざこざが起こります。
下は当時高踏的なジャーナリズムを展開していた雑誌、「ハーパース・ウイークリー」に載った風刺漫画家、トーマス・ナストの描いた「中国問題」と題された風刺画です。

そこでは「この人に手を出さないで! 全ての人をフェアに扱うアメリカ精神は何処へ行ったの?」という文字が見えます。ちなみにこの女性はコロンビア(Columbia→コロンビア大学はここから来ている)という名前で、アメリカ合衆国の良心を擬人化した空想のキャラクターです。
つまりブームの時に労働力を短期契約のつもりで輸入してみたけれど、仕事が終わったから「はいサヨナラ」というわけには行かなかったのです。特に当時は低所得で教育水準も低かったアイルランド系が、中国人をいちばん脅威に感じ、中国人狩りに熱心だった点は興味深いです。
なぜならジャガイモ飢饉でアイルランド人がどんどんアメリカに押し寄せた際、アイルランド人は黒人よりも更に地位が低く、もっとも穢い仕事を、もっとも安い労賃で喜んで引き受けたからです。この時、黒人とアイルランド人はニューヨークのスラム街、ファイブ・ポインツで壮絶な抗争に明け暮れました。
このようにアイルランド人はアメリカ社会の底辺を這い回った苦しい経験があったにもかかわらず、こんどは自分たちよりも更に底辺の中国人という存在が現れたので、ちょうど自分たちが黒人たちから虐められたのと同じことを、今度は中国人に対して行ったのです。
つまり外国からの労働力の流入は、つねにそれを受け入れる側の国の底辺の人間の生活を脅かすのです。
こうしてアメリカは1882年に中国人排斥法という法律を成立させます。ところがアメリカの実業界や裕福な家庭は安価な労働力を必要としていたので、中国人に代わって日本人に白羽の矢が立てられたのです。
下は当時の人口の推移を示したグラフですが、中国人排斥法成立の後に出稼ぎの日本人が一気に増えていることがわかります。

一般に日本から来た労働者は中国から来た労働者より識字率が高く、勤勉で、いざこざも起こさなかったと言われます。日本人の賃金は、当然、先住者である中国人労働者より低かったです。
日本人は「スクールボーイ」としてアメリカ人の家庭に住み込み、家事や炊事をこなしながら学校に通い、読み書きを覚えました。要するに使用人です。
日本人はアメリカの企業では出世できないので、農業、あるいは商店をやることが社会的地位を向上させる最善の方法でした。
今日カリフォルニアのセントラル・バレーはアメリカでも最も生産性が高く、高付加価値な作物を供給する農業地帯として知られていますが、いちごやレタスなど、数多くの作物は先ず日本人の農家によって栽培が試され、カリフォルニアの気候や土壌に合わせた改良がなされました。いまでもセントラル・バレーのフレズノの人口の5%が日系人なのはその関係です。
しかし黙々と働く日本人はアメリカの下層階級の人たちから見れば生活を脅かす存在です。そのような理由から、勤勉で比較的高スキルであるがゆえに、反日感情が燃え上がったわけです。
つまり移民を高スキル、低スキルに区別して受け入れようとする運用は、机上で考えるほど簡単ではないのです。受け入れ国にとって都合のいい、「品行方正で使いやすい労働力だけを導入する」云々の議論は、アメリカで過去140年に渡って蒸し返されてきた論争であり、それは今でも続いています。つまりアメリカでも結論が出ていない問題なのです。
結局、日本人のアメリカへの移住は、1924年のジョンソン=リード法(→日本では排日移民法という通称で知られている)によって制限されます。
これがその後の日米関係の悪化につながり、日本人の間で反米感情を煽る結果になるわけです。
その後、真珠湾攻撃の後、日系人がマンザナーをはじめとする強制収容所に抑留されたことは皆さんのご承知の通りです。

つまり日本が「老人の介護が必要だ」というような目先の自分の都合だけで外国人労働者に門戸を開くと、後で帰国してもらうときにひと悶着あるかもしれないし、そのようなトラブルはそれらの外国における反日感情を生むリスクもあるということです。

そこでは「この人に手を出さないで! 全ての人をフェアに扱うアメリカ精神は何処へ行ったの?」という文字が見えます。ちなみにこの女性はコロンビア(Columbia→コロンビア大学はここから来ている)という名前で、アメリカ合衆国の良心を擬人化した空想のキャラクターです。
つまりブームの時に労働力を短期契約のつもりで輸入してみたけれど、仕事が終わったから「はいサヨナラ」というわけには行かなかったのです。特に当時は低所得で教育水準も低かったアイルランド系が、中国人をいちばん脅威に感じ、中国人狩りに熱心だった点は興味深いです。
なぜならジャガイモ飢饉でアイルランド人がどんどんアメリカに押し寄せた際、アイルランド人は黒人よりも更に地位が低く、もっとも穢い仕事を、もっとも安い労賃で喜んで引き受けたからです。この時、黒人とアイルランド人はニューヨークのスラム街、ファイブ・ポインツで壮絶な抗争に明け暮れました。
このようにアイルランド人はアメリカ社会の底辺を這い回った苦しい経験があったにもかかわらず、こんどは自分たちよりも更に底辺の中国人という存在が現れたので、ちょうど自分たちが黒人たちから虐められたのと同じことを、今度は中国人に対して行ったのです。
つまり外国からの労働力の流入は、つねにそれを受け入れる側の国の底辺の人間の生活を脅かすのです。
こうしてアメリカは1882年に中国人排斥法という法律を成立させます。ところがアメリカの実業界や裕福な家庭は安価な労働力を必要としていたので、中国人に代わって日本人に白羽の矢が立てられたのです。
下は当時の人口の推移を示したグラフですが、中国人排斥法成立の後に出稼ぎの日本人が一気に増えていることがわかります。

一般に日本から来た労働者は中国から来た労働者より識字率が高く、勤勉で、いざこざも起こさなかったと言われます。日本人の賃金は、当然、先住者である中国人労働者より低かったです。
日本人は「スクールボーイ」としてアメリカ人の家庭に住み込み、家事や炊事をこなしながら学校に通い、読み書きを覚えました。要するに使用人です。
日本人はアメリカの企業では出世できないので、農業、あるいは商店をやることが社会的地位を向上させる最善の方法でした。
今日カリフォルニアのセントラル・バレーはアメリカでも最も生産性が高く、高付加価値な作物を供給する農業地帯として知られていますが、いちごやレタスなど、数多くの作物は先ず日本人の農家によって栽培が試され、カリフォルニアの気候や土壌に合わせた改良がなされました。いまでもセントラル・バレーのフレズノの人口の5%が日系人なのはその関係です。
しかし黙々と働く日本人はアメリカの下層階級の人たちから見れば生活を脅かす存在です。そのような理由から、勤勉で比較的高スキルであるがゆえに、反日感情が燃え上がったわけです。
つまり移民を高スキル、低スキルに区別して受け入れようとする運用は、机上で考えるほど簡単ではないのです。受け入れ国にとって都合のいい、「品行方正で使いやすい労働力だけを導入する」云々の議論は、アメリカで過去140年に渡って蒸し返されてきた論争であり、それは今でも続いています。つまりアメリカでも結論が出ていない問題なのです。
結局、日本人のアメリカへの移住は、1924年のジョンソン=リード法(→日本では排日移民法という通称で知られている)によって制限されます。
これがその後の日米関係の悪化につながり、日本人の間で反米感情を煽る結果になるわけです。
その後、真珠湾攻撃の後、日系人がマンザナーをはじめとする強制収容所に抑留されたことは皆さんのご承知の通りです。

つまり日本が「老人の介護が必要だ」というような目先の自分の都合だけで外国人労働者に門戸を開くと、後で帰国してもらうときにひと悶着あるかもしれないし、そのようなトラブルはそれらの外国における反日感情を生むリスクもあるということです。