今日、アメリカの各地で米中関係全国委員会(National Committee on United States China Relations)のタウンホール・ミーティングが開催され、米中国交正常化に功績のあったヘンリー・キッシンジャーが基調演説します。

アメリカでは大統領選挙がいよいよ大詰めを迎えており、共和党のドナルド・トランプ候補は「中国からの輸入品に45%の関税をかけろ!」と過激な発言をしています。そのような折、良好な米中関係の維持は一層重要になっています。

米中関係全国委員会は、いまからちょうど50年前、1966年に設立された歴史の長い米中友好団体です。

第二次世界大戦後の米中関係を見ると、1950年6月に勃発した朝鮮戦争でアメリカと中国は朝鮮半島を巡って直接対立しました。

またベトナム戦争では中国はホー・チ・ミンの北ベトナムを支援し、ふたたびアメリカと対立しました。

米国は泥沼化するベトナム戦争をどう集結させるか? という問題に苦しんでいました。この問題にヒントを与えたのは、フランスの大統領、シャルル・ドゴールでした。

「わたしは他人の意見に賛同することは、しない。イエスかノーか? それを意思表示するだけだ」


そう傲慢に言い放ったドゴールは、20回以上も暗殺されかかり、その度ごとにかろうじて難を逃れましたが、それでも泰然として、まったくビビりませんでした。

それもそのはず、ドゴールはサンシール陸軍士官学校を卒業後、第一次世界大戦ではヴェルダンの戦いに参加、負傷しています。またドイツ軍の捕虜となり、インゴルシュタット捕虜収容所で過ごした経験もあります。その際、たまたま「赤いナポレオン」と呼ばれたロシアのミハイル・トゥハチェフスキーと同じ収容所で知り合っています。なおこの二人はドゴールがポーランドの軍事顧問としてポーランド・ソビエト戦争でポーランド軍を指導した際、それぞれの軍の司令官として対決しました。

第二次世界大戦がはじまると上司で、ドゴールに目をかけていたアンリ・フィリップ・ペタン将軍はドイツ軍がフランスに侵攻してきたので休戦しヴィシー政権という実質的なドイツの傀儡政権のリーダーとなります。ドゴールはこれをフランスに対する裏切りと見做し、ロンドンに亡命政府「自由フランス」を結成、BBCラジオを通じて対独抗戦を訴え続けます。

ノルマンディー上陸作戦で連合軍がパリに入城した際、ドゴールは自由フランス軍の先頭に立って凱旋門をパレードします。そのとき、まだドイツ軍の残党がパリに潜んでいて、時折、銃弾が飛んできたそうです。それにも動じず、ドゴールは胸を張って行進したというわけです。

1

つまりドゴールには超然としたカリスマ性が備わっていたのです。

ドゴールは自伝の中で次のように書いています。

強靭な人格を持つ者は大きなイベントが起きたときにもそれに動じない胆力を具備していなければいけない。そのような器の大きい人間は、普段の人間関係を円滑に過ごす際に必要となる表面的なチャーミングさを欠いている場合が多い。強烈な個性とは、粗削りで、迎合せず、アグレッシブな性格を指す。

行動の人は、きまって瞑想家タイプであり、群れない。自分の中に長い間、閉じこもっていることができる人間だ。


リチャード・ニクソンはドゴールの自伝のこの部分に下線を引き、何度も読み直したそうです。

さて、ようやくナチス・ドイツの支配から解放されたフランスにとって植民地インドシナに勃発したベトナム独立戦争は「汚れた戦争」として忌まわしい記憶となっています。当時のお金で戦費3兆フラン、2万5千人のフランス軍兵士が戦死しています。その挙句にベトナムを全部、手放してしまったのです。

つまりベトナム戦争の幕引きの仕方を考えているアメリカにとって、フランスは同様のことを経験した「先輩」だったのです。

この経験からドゴールはニクソンに対し「中国と和解しなさい」とアドバイスします。

ニクソンにとってドゴールはアイドルであり、「最高のリーダーかくあるべし」というロール・モデルです。そのドゴールからそう入れ知恵されたので、米中国交正常化をおこなうニクソンの肚は決まったのです。

2

ずっと後になってから「米中国交正常化はキッシンジャーが考案したことだ」ということが言われ出したわけだけど、それは正しくありません。

アイデアの出どころは、ドゴールなのです。