2017年が始まるにあたってJPモルガン・チェース(ティッカーシンボル:JPM)に言及するのはとても適切な気がします。
その理由は、金利環境が、引き続き銀行株にとって有利になってゆく状況が今年は続くと考えるからです。

リーマンショック以降、メガバンクは批判の対象になることが多かったし、ドッドフランク法という同セクターにとってアゲンストの風となる立法も行われました。
そんな、こんなで、銀行セクターは出遅れてきました。
去年の後半、銀行株はようやく動意付いてきたわけですが、まだまだ銀行株の相場は若いと思います。
目先は、トランプ当選後、思いっきりダッシュした後なので、JPモルガン・チェース、バンク・オブ・アメリカ(ティッカーシンボル:BAC)などの銘柄は、一旦、冷やす必要を感じます。
でも2017年もこれらの銘柄がコアであることには変わりはないと思っています。
ちょっとしたウンチクになりますが、実はJPモルガンという銀行はJPモルガンという人が創設したのではありません。
JPモルガンの母体になったのは、ジョージ・ピボディという人がロンドンで1838年に開いた個人銀行です。
当時アメリカは運河や鉄道などのインフラストラクチャ建設が盛んで、いくらでも資本を必要としていました。しかし資本の出し手となると、やっぱり世界に君臨している大英帝国しか無かったわけです。
そこでジョージ・ピボディはロンドンにマーチャント・バンクを開設し、アメリカのために資本を調達する仕事に着手します。
ピボディはもともとマサチューセッツ州ダンバースに生まれますが、幼少のときに父親が死に、母と6人の兄弟を支えるため、殆ど学校へ行かず子供のときから働きに出ます。そしてボルチモアの乾物屋として成功を収めます。つまり苦労人です。
そのときの輸出入の決済の経験から「いまのアメリカにいちばん不足しているのは資本だ」と感じ、当時世界の金融の中心だったロンドンに出てきて大西洋間の貿易の資本を調達する仕事を始めるわけです。
当時、アメリカとの貿易ファイナンスをやっていた銀行は、ベアリングであり、トーマス・ウォードという有名なバンカーが居ました。またロスチャイルドはアメリカにオーギュスト・ベルモントという代理人を置きます。
これらのロンドンの銀行に対し、ジョージ・ピボディは「アメリカっぽさ」を売りにして営業活動をしてゆきます。
1840年代のアメリカはペンシルバニア、ミシシッピ、インディアナ、アーカンソー、ミシガンの各州がデフォルトするなど、厳しい状態にあり、ジョージ・ピボディもそれらの州債を扱っていた関係で信用失墜してしまいます。
その後、ピボディは各州が返済を再開することを助けることに奔走し、「あいつは信用できる」という評価を獲得します。
ピボディは基本的に「一人銀行」として振る舞い、大きな組織を持っていませんでしたが、ボストン出身のジュニアス・スペンサー・モルガンを推薦され、彼をパートナーとして招き入れます。
この頃にはクリミア戦争が起こり、ウクライナの穀倉地帯からの穀物の供給が不安に晒され、代替供給地としてアメリカの穀物が注目されます。アメリカとの貿易をファイナンスしていたジョージ・ピボディの銀行も大儲けしますが、クリミア戦争の終結とともに穀物価格が急落し、ピボディの銀行も大打撃を受け、イングランド銀行から80万ポンドの緊急融資を受けることで何とか難を逃れます。このときの体験が、後のJPモルガンの家訓となる保守的な銀行経営に向かわせたわけです。
1864年にジョージ・ピボディがリタイアし、経営権をJSモルガンに移譲するわけですが、ジョージ・ピボディという商号はピボディが使わせなかったので、ジュニアス・スペンサー・モルガンはピボディの銀行をJSモルガン商会と改名します。
ジュニアス・スペンサー・モルガンはボストンの牧師の娘、ジュリエット・ピアポントと結婚します。息子のジョン・ピアポント・モルガンが常にウォール街の良心を代表し、JPモルガン商会が牧師や教師の子息を優先して雇ったのは、そのような経緯によります。
JPモルガンは父のJSモルガン商会のアメリカの出先機関としてJPモルガンを1861年に設立します。マーチャント・バンクは情報が命なので、毎週、火曜日と水曜日の2日間を父に対するレポート執筆に充て、米国の経済、政治情勢に関する長い報告書を船便でロンドンの父に送りました。
この習慣は33年間続き、父のジュニアス・スペンサー・モルガンは息子からのレターをちゃんと革製の表紙を付けて製本し、本棚に保管したそうです。
今日のJPモルガン・チェースも創業当時の「勤勉」、「国際的」、「情報に重点を置くカルチャー」を踏襲していると思います。
その理由は、金利環境が、引き続き銀行株にとって有利になってゆく状況が今年は続くと考えるからです。

リーマンショック以降、メガバンクは批判の対象になることが多かったし、ドッドフランク法という同セクターにとってアゲンストの風となる立法も行われました。
そんな、こんなで、銀行セクターは出遅れてきました。
去年の後半、銀行株はようやく動意付いてきたわけですが、まだまだ銀行株の相場は若いと思います。
目先は、トランプ当選後、思いっきりダッシュした後なので、JPモルガン・チェース、バンク・オブ・アメリカ(ティッカーシンボル:BAC)などの銘柄は、一旦、冷やす必要を感じます。
でも2017年もこれらの銘柄がコアであることには変わりはないと思っています。
ちょっとしたウンチクになりますが、実はJPモルガンという銀行はJPモルガンという人が創設したのではありません。
JPモルガンの母体になったのは、ジョージ・ピボディという人がロンドンで1838年に開いた個人銀行です。
当時アメリカは運河や鉄道などのインフラストラクチャ建設が盛んで、いくらでも資本を必要としていました。しかし資本の出し手となると、やっぱり世界に君臨している大英帝国しか無かったわけです。
そこでジョージ・ピボディはロンドンにマーチャント・バンクを開設し、アメリカのために資本を調達する仕事に着手します。
ピボディはもともとマサチューセッツ州ダンバースに生まれますが、幼少のときに父親が死に、母と6人の兄弟を支えるため、殆ど学校へ行かず子供のときから働きに出ます。そしてボルチモアの乾物屋として成功を収めます。つまり苦労人です。
そのときの輸出入の決済の経験から「いまのアメリカにいちばん不足しているのは資本だ」と感じ、当時世界の金融の中心だったロンドンに出てきて大西洋間の貿易の資本を調達する仕事を始めるわけです。
当時、アメリカとの貿易ファイナンスをやっていた銀行は、ベアリングであり、トーマス・ウォードという有名なバンカーが居ました。またロスチャイルドはアメリカにオーギュスト・ベルモントという代理人を置きます。
これらのロンドンの銀行に対し、ジョージ・ピボディは「アメリカっぽさ」を売りにして営業活動をしてゆきます。
1840年代のアメリカはペンシルバニア、ミシシッピ、インディアナ、アーカンソー、ミシガンの各州がデフォルトするなど、厳しい状態にあり、ジョージ・ピボディもそれらの州債を扱っていた関係で信用失墜してしまいます。
その後、ピボディは各州が返済を再開することを助けることに奔走し、「あいつは信用できる」という評価を獲得します。
ピボディは基本的に「一人銀行」として振る舞い、大きな組織を持っていませんでしたが、ボストン出身のジュニアス・スペンサー・モルガンを推薦され、彼をパートナーとして招き入れます。
この頃にはクリミア戦争が起こり、ウクライナの穀倉地帯からの穀物の供給が不安に晒され、代替供給地としてアメリカの穀物が注目されます。アメリカとの貿易をファイナンスしていたジョージ・ピボディの銀行も大儲けしますが、クリミア戦争の終結とともに穀物価格が急落し、ピボディの銀行も大打撃を受け、イングランド銀行から80万ポンドの緊急融資を受けることで何とか難を逃れます。このときの体験が、後のJPモルガンの家訓となる保守的な銀行経営に向かわせたわけです。
1864年にジョージ・ピボディがリタイアし、経営権をJSモルガンに移譲するわけですが、ジョージ・ピボディという商号はピボディが使わせなかったので、ジュニアス・スペンサー・モルガンはピボディの銀行をJSモルガン商会と改名します。
ジュニアス・スペンサー・モルガンはボストンの牧師の娘、ジュリエット・ピアポントと結婚します。息子のジョン・ピアポント・モルガンが常にウォール街の良心を代表し、JPモルガン商会が牧師や教師の子息を優先して雇ったのは、そのような経緯によります。
JPモルガンは父のJSモルガン商会のアメリカの出先機関としてJPモルガンを1861年に設立します。マーチャント・バンクは情報が命なので、毎週、火曜日と水曜日の2日間を父に対するレポート執筆に充て、米国の経済、政治情勢に関する長い報告書を船便でロンドンの父に送りました。
この習慣は33年間続き、父のジュニアス・スペンサー・モルガンは息子からのレターをちゃんと革製の表紙を付けて製本し、本棚に保管したそうです。
今日のJPモルガン・チェースも創業当時の「勤勉」、「国際的」、「情報に重点を置くカルチャー」を踏襲していると思います。