
第六章
ハリーズは会社から二百メートルほど離れたところにある、ハノーバー・スクエアという小さな公園の前にあるレストラン・バーだ。
ブラウンストーンのどっしりとしたタウンハウスで、入口の横には十九世紀風のガス燈があった。
ここはショーンフィールド&サンズの社員だけでなく、ウォール街に勤める人たちが帰宅前に一杯ひっかける場所として人気があった。
スパンキーを中心として我々がハリーズに乗り込んだ時には、バーはすでに混雑していた。
スパンキーはカウンターの中のバーテンダーにクレジットカードを渡しながら「今日の勘定は俺持ちだ」と告げた。
十人ほどのトレーダーや営業マンが勝手にビールを注文した。
スパンキーは「裕美は何がいい?」ときいた。
「ビールの銘柄は、正直言ってわからないわ」
「そうか……それもそうだな。じゃ、ハイネケンあたりから始めて見るか」
そう言ってバーテンダーに二つ注文した。
皆の手に飲み物が渡ったところで私を囲んで乾杯した。
乾杯してしまえば、後は皆、勝手な相手と談笑をはじめた。
私は同僚たちの大リーグ野球の話に、わからないなりに耳を傾けていたが、肩越しに男の気配を感じた。
その男を無視して、同僚たちの会話を聞いているふりをした。
しばらくして後ろの気配をうかがってみると、まだその男はそこに立っている。
ただ黙って、私のことをじっと見ているようだ。
私はその視線に抗することが出来ず、ちらっと後ろを見た。
男は無言のまま微笑んだ。
私は気まずくなったので、また皆の方に向き直った。
その時、その男が後ろから私の耳元に顔を近づけて、小さな声で言った。
「僕はカルロスだ。セールス・トレーダーだよ」
男の方に向き直った。
どう返答していいかわからなかった。
「じろじろ見てしまって、失礼。きみから目を離す事が出来なかったのだ」
その男はサラッとした調子でそう言った。
その静かなたたずまいに、自分の魅力に自信を持っていることが感じられた。
女性的とすら言える繊細さのある顔立ちだった。
彼は、黒の、仕立ての良いイタリアン・スーツを着ていた。
ネクタイは無く、白いドレスシャツの一番上のボタンは外れていた。
「わたしは」
自己紹介しようとしたとき、彼がそれをさえぎった。
「あなたが誰であるかは知っているよ。オフィス中がトーキョーから着たミステリアスな美女の噂でもちきりだからね」
私は黙って男の方を見た。
「あなたのことをずっと見てきた。三ヶ月間ね」
そのとき、昨日メアリーベスから聞いた、夜のトレーディング・ルームでの痴態の話を思い出した。
いままで点と点がつながらなかったが、この男が名うてのプレイボーイのカルロスであることに、ようやく気がついた。
「わたしもあなたが誰だかわかったわ。いろいろ噂のひとね」
カルロスは静かに微笑んで、柔らかい、丁寧な口調でつづけた。
「世間にはどうでも言わせておくさ。彼らは僕がどんな人間であるか知らない」
他のトレーダーが二人の話に割って入った。
「ようカルロス、おまえはまめな男だな。裕美にアプローチかけているのか」
カルロスはちらっとそのトレーダーの方を見た。
無言だったが、決して怒った様子は無い。
カルロスに無言でじっと目をすえられて、居心地がわるくなったのか、そのトレーダーは向こうへ行ってしまった。
カルロスは私に向き直った。
「誰もが自分の勝手な基準で他人を評価する。あなたを含めてね」
「私には付き合っている人が居ます」
「だろうね。男が放っておくはずがない」
「でもあなたには好きな人が居るのでしょう?」
「ダイアンの事かい? 噂が立ってしまったことは仕方ないな。彼女は積極的だ。つまりセックスに対する好奇心が強いということだ。昨日は強引に押しまくられた」
「彼女が居ながら私に声をかけるなんて、許せない。あなたは不道徳な人ね」
「きれいな女性の前には道徳や常識は無力だ」
「あなたの行動は軽薄で、邪悪で、不潔だわ。ダイアンがかわいそう。あなたの誘惑にはゼッタイに乗らないわ」
カルロスは私のその言葉には何も答えなかった。
私は(ちょっと言い過ぎたかしら?)と思った。
カルロスは静かにビールを飲んで、続けた。
「誘惑は我々の周りの、あらゆるところに存在する。誘惑は、それ自体、善でもなければ、悪でもない。誘惑は美しいものを賛美する行為のひとつに過ぎない。きみの場合も、もちろん賛美の対象だ。ところで資本主義自体、ひとつの誘惑の機構だと考えることが出来る。あなたもその機構の一部だよ」
カルロスのそんな言い方に怒りを感じた。
「わたしはそんな邪悪な存在ではありません。それどころか誘惑を憎んでいるわ」
カルロスはそれを聞くと、溜息をもらして、次のように続けた。
「僕から見れば、あなたは誘惑のゲームをとても上手く戦っている気がする。つまりツボを心得ているということだ」
「一体、それどういう意味?」
私は思わず声を荒げた。
ちょっと離れたところにいたはずのスパンキーが、いつの間にか私の横に居て、「裕美、大丈夫?」ときいた。
「ええ、私は平気よ」
それを聞いてスパンキーはまたもとの場所に戻って行った。
「怒らせてごめんよ。あなたは確かにそこらの女とは違う。他の人たちよりもう一段、高いレベルでものを考えているし、行動している。僕のお行儀の悪さを直すためには、もう少しキミのような清楚さを見習うべきかもしれない」
素直に自分の非を認める辺りは(この男、ちょっとかわいいところもあるわね)と思った。
それにカルロスの淡々としたしゃべり方には、どこか魔法のような、引きつけられるものがあった。
「僕はね、メトロポリタン美術館が好きだ。こんなうるさい場所で難しい話をしてもはじまらない。どうだい、今度の土曜日に一緒にメトロポリタン美術館を見て回らないかい? 僕はどっちにしても行くつもりだから正午に正面の階段のところで待ち合わせよう」
カルロスはそういうと私の返事も待たずにバーの人ごみの中に消えてしまった。続きを読む