「投資」は良くて「投機」は悪い。

日本ではそういう考え方が常識とされています。

でもこれほど嘘っぱちな「都市伝説」もありません。

投資理論や経済理論の世界ではそもそも投資(investment)と投機(speculation)の区別はありません。

「投資」の方が勝率が高くて、「投機」の方が勝率が低いなんてこともありません。

また多くの人が信じている「投資」は社会のために貢献し、「投機」は社会のためにならないという議論ですが、これも誤った俗説に過ぎません。

ではなぜ「投資」は良くて「投機」は悪いというウソがこれほどあまねく世間一般に信じられているのでしょうか?

それは1980年代に日本の証券会社が株式の大衆化を推進する過程でにわか仕立てのセオリーを徹底的に吹聴して回ったからです。

当時はNTTの売り出しなどがありましたからそれ以前の証券界とはぜんぜん違うスケールで大衆を巻き込まなければいけないという、差し迫ったニーズがあったのです。

でも兜町のイメージは悪く、「株なんかやっている奴に、まともな人間は居ない」というのが世間の常識だったのです。

そこで株式投資のジェントリフィケーション(gentrification)、つまりイメージ・アップを図ることが日本の国としても急務でした。(結局のところNTTを上手く「売り抜けた」のは他でもない日本政府だったのですから。)

そこで証券界がdust off(埃を払って、昔のものを持ち出すこと)してきたのがベンジャミン・グラハムとデビッド・ドットが1934年に出版した『証券分析』という本です。

ちょっと話が脱線しますが、グラハムとドットがこの本を出した当時の世間のウォール街に対するイメージ(=大暴落の直後だったので、当然最悪でした)と1980年代の兜町の社会的地位の低さには相通じるものがあったことを指摘しておきます。

「株なんて、ヤクザな人間が手を染めるものだ。」

そういう根強い観念がアメリカにもあり、当時の機関投資家は「投資」と言えば債券(=多くは鉄道債や公共債)だけが「投資適格」であり、株は「邪道」と見做されていたのです。

グラハムとドットは「いや、そうじゃない。株式だって、ある一定のルールを踏めば安全に投資できる。」ということを主張したのです。そこでグラハムとドットが考えるところの正しいルールを順守したやり方を「投資」と定義し、それ以外の全てを「投機」と分類したわけです。

それではその正しいルールとは何か?ですが、ごく乱暴にいえば対象となる企業の株式がその本来価値(intrinsic value)に照らして大きく割安に取引されており、株式の持つ値動きの荒さなどに代表されるマイナス面を補って余りあるほどの安全ののりしろ(margin of safety)が確保できる場合だけ、その株を買ってよいし、それが「投資」なのだと主張したわけです。
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