高級ブランドの帝王、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンの創業者であるベルナール・アルノー(76)が、足元で自社への支配力をさらに強めている。パリ証券取引所への開示資料から明らかになったのは、彼が今年2月からの8カ月間で、約14億ユーロ(約2490億円)もの巨費を投じて密かにLVMH株を買い増していたという事実だ。
現在の高級品市場は、業績の減速や業界全体の冷え込みから株価が急落する局面にある。しかしアルノーは、自らの持ち株会社を通じてこの好機を逃さず動いた。昨年末の時点で、彼はすでに議決権の65%を掌握していたが、今回の追加取得(株式全体の約0.5%相当)により、その支配体制は「絶対的多数」という確固たる領域へさらに一歩近づいたことになる。市場の時価総額トップ25ブランドの中でも、LVMHは依然として最高峰の評価を維持しているが、このトップの動きは単なる防衛策にとどまらない。ブランドの覇権を盤石にしつつ、彼らはすでに見据えている次の戦場、すなわち「モノから体験へ」というゲームチェンジに打って出ているのだ。
個人向けの高級品、つまりバッグや時計といった「所有するラグジュアリー」への渇望が世界的に落ち着きを見せる中、LVMHはアコー(Accor)グループとの共同事業として、伝説的な名を冠した「オリエント・エクスプレス」を全く新しい方向へと舵を切らせた。その象徴が、今シーズンにデビューを果たした初のスーパーヨット「コリニアン号」だ。フランスとイタリアのリヴィエラを往来するこの豪華客船は、もはや単なる富の誇示ではなく、顧客の関心が「所有」から「限られた空間へのアクセス、その場にいること、そして体験」へと移り変わっている現実を如実に映し出している。
アコーのCEOであるセバスチャン・バザンは、この事業が生成AIブームによって誕生した新たな富裕層の需要を的確に捉えていると自信をのぞかせる。急増するウルトラ・ハイネットワース(超富裕層)の人々は、もはや既存の高級品を欲してはいない。すでに家を7軒、車を12台、時計を17本持っているような人間が、18本目の時計を買うかといえば、答えはノーだ。彼らが次に求めるのは、1スイートあたり2万5000ユーロ(約440万円)から始まる、リヴィエラを巡る4日間のクルーズという特別な時間なのである。2026年にはAI関連の億万長者が新たに45人誕生したとされており、こうした層が最高峰のサービスへの需要を押し上げている。コリニアン号は、カンヌ国際映画祭やモナコF1グランプリといった華やかなイベントに合わせた航路を組み、彼らにしか許されない特別なアクセスを提供することで、その価値を担保している。
このヨットの内部に足を踏み入れると、LVMHが持つブランドのポートフォリオがごく自然に、かつ贅沢に溶け込んでいることに気づく。ゲランのビューティーサロンが軒を連ね、ペントハウスのスイートルームにはヘネシーのコニャックがそっと置かれている。しかし、そこにはいやらしい広告やセールの気配は一切ない。ブランドは「売られるべき商品」として存在するのではなく、洗練された世界を構成する「質感(テクスチャー)」として埋め込まれているのだ。これは従来の小売のロジックではなく、極上のホスピタリティデザインの思考に近い。
バザンによれば、LVMHとアコーは将来的に互いの株式を取得できる相互オプションを保持しているという。現在、オリエント・エクスプレスが擁するホテル群や、近く運行が予定されているアール・デコ調の豪華列車、そしてコリニアン号を含む2隻のヨットを合わせた事業価値は約10億ユーロと試算されている。
ベイン・アンド・カンパニーの調査によると、個人向け高級品の成長率がわずか1〜4%にとどまると予測されるのに対し、ハイエンドな体験型消費への支出は今年9〜11%も伸びる見通しだという。LVMHにとって、この共同事業は市場の構造変化に対する極めて打たれ強いヘッジ(リスク回避)として機能している。
将来的にLVMHがこのブランドを完全に買収し、自社のホスピタリティ部門に統合するのか、あるいは独立したビジネスとして存続させるのかは、現時点ではまだ見えてこない。ただ、オリエント・エクスプレスという存在が今、証明しているのは、現代のラグジュアリービジネスにおける最もスマートな戦略とは、ただ空間を満たすための商品を作るのではなく、その「空間(環境)そのものを創り出すこと」にあるという事実だ。