スティーブ・ジョブズは「コンピュータはこうあるべきだ」という視点から物事を考えることが出来る稀有な才能を持った人でした。
「こうあるべきだ」という意見は、見方によっては個人の価値観の押し付けに他なりません。
ジョブズはその価値観の押し売りを率先してやりました。
逆に「いま世間で何が売れているか?」を観察し、その時流に迎合した製品を慌てて企画するというやり方を心から軽蔑していました。
これはつまり「is」ではなく「should」に基づいた経営です。
おのずとアップルの製品作りにはジョブズの審美眼が色濃く反映されます。アップルの新製品発表会がエキサイティングだった理由はこの卓越した未来の予見者からの「ご神託」が聞けたからです。
そのジョブズも常に正しかったわけではありません。失敗作もいろいろありました。
彼個人の主観を消費者に押し付けるわけですから、その全てが受け入れられるわけではないのです。
また自分のイメージ通りの製品が出来るまでジョブズは社員にギリギリを要求しました。傍若無人に振る舞いました。つまりジョブズは独裁者だったのです。
ここ数年のスティーブ・ジョブズはiPhoneやiPadなどを次々に成功させ、殆ど神格化された存在でした。
そんなスティーブ・ジョブズにもやることなすこと全て上手く行かない極度のスランプの時期がありました。
僕はたまたま仕事の関係でスティーブがどん底の時期に彼という人物を知るきっかけがあり、大変強い印象を受けました。
それは1996年から2000年にかけての時期です。
スティーブは1983年に自分が雇ったペプシコーラ出身のジョン・スカリーとソリが合わなくなり、重役会にはかった結果、自分が創業したアップルから追い出されました。
そしてNeXTを創業しますが、これは成功しませんでした。
また映画、『スターウォーズ』シリーズを制作したジョージ・ルーカス監督のインダストリアル・ライト&マジック(=現在のルーカスフィルム)からコンピュータ・グラフィックス部門を買収し、ピクサーと命名し、コンピュータ・グラフィックス専用のハードウェアを発売しますが、これもぜんぜん売れませんでした。
売れないグラフィックス・コンピュータの処置に困ったピクサーの社員が何とか食いつなぐためにCMの映像制作の下請けをしたのが映画製作会社としてのピクサーの始まりだったわけです。
スティーブが僕の勤めていたサンフランシスコの投資銀行、ハンブレクト&クイスト(H&Q)によく遊びに来たのはそんな当時です。
「よお、ビルの親爺、居るか?」と突然、やってきてH&Qの創業者であり会長であるビル・ハンブレクトと歓談してゆきました。
ビル・ハンブレクトはアップルが1980年にIPOしたときのアドバイザーであり、H&Qはモルガン・スタンレーと並んでこのディールの主幹事を務めました。
墓石広告ではモルガン・スタンレーが左側(上位)に位置していますが、これは会社の規模がモルガン・スタンレーの方が大きかったからで、もともとスティーブ・ジョブズに上場会社になるときの細かいアドバイスを与えていたのはビル・ハンブレクトでした。
スティーブの意向で「バルジ・ブラケット(大手の意味)証券を噛ませたい」と言われた時、ビルが旧友でモルガン・スタンレーのCEOを務めていたディック・フィッシャーに電話したのです。
そんな事からスティーブはビルのことを父親のように慕っていました。
「ちょっと近所まできたからさ」
そう言ってスティーブが会社に寄るといつもH&Qの社員はスティーブを暖かく迎えました。
でも(本当はスティーブは行き場所が無いんだな)という事はH&Qの社員は皆、ひしひしと感じていました。
つまりNeXTでもピクサーでも仕事が行き詰っており、両社とも「硫黄島玉砕」みたいなギリギリの状態でしたので、心を開いていろいろ相談したり、長期的なハイテク業界の未来について心おきなく語ったりすることが出来る環境ではとてもなかったのです。
スティーブが来ると「じゃ、折角だからサンドイッチを買って、ブラウンバッグ・ランチにしよう」という事で株式営業部員は全員トレーディング・デスクを離れ、会議室でスティーブを囲みました。
僕の仕事はスティーブのサンドイッチを会社の斜向かいにあるサンドイッチ屋、「スペシャルティーズ」から買ってくることです。
「スティーブ、サンドイッチは何にしますか?ターキーですか、ハムですか?」
「パンはホール・ウィートですか、ホワイト・ブレッドですか?」
僕がスティーブ・ジョブズと最初に口を利いたのは、そんなやりとりでした。
スティーブを囲んだブラウンバッグ・ランチはいつも無礼講みたいな感じで活発なテクノロジー談義になり、スティーブのビジョン、さらに彼の美意識を知る上で大変貴重な経験になりました。
ピクサーに関しては「映画作りでいちばん大切なのは心にグッとくるストーリーだ。映像が美しいことも大事だけど、コンピュータが可能にする特撮の技巧の虜になってはいけない」という事を強く主張していたのが記憶に残っています。
「こうあるべきだ」という意見は、見方によっては個人の価値観の押し付けに他なりません。
ジョブズはその価値観の押し売りを率先してやりました。
逆に「いま世間で何が売れているか?」を観察し、その時流に迎合した製品を慌てて企画するというやり方を心から軽蔑していました。
これはつまり「is」ではなく「should」に基づいた経営です。
おのずとアップルの製品作りにはジョブズの審美眼が色濃く反映されます。アップルの新製品発表会がエキサイティングだった理由はこの卓越した未来の予見者からの「ご神託」が聞けたからです。
そのジョブズも常に正しかったわけではありません。失敗作もいろいろありました。
彼個人の主観を消費者に押し付けるわけですから、その全てが受け入れられるわけではないのです。
また自分のイメージ通りの製品が出来るまでジョブズは社員にギリギリを要求しました。傍若無人に振る舞いました。つまりジョブズは独裁者だったのです。
ここ数年のスティーブ・ジョブズはiPhoneやiPadなどを次々に成功させ、殆ど神格化された存在でした。
そんなスティーブ・ジョブズにもやることなすこと全て上手く行かない極度のスランプの時期がありました。
僕はたまたま仕事の関係でスティーブがどん底の時期に彼という人物を知るきっかけがあり、大変強い印象を受けました。
それは1996年から2000年にかけての時期です。
スティーブは1983年に自分が雇ったペプシコーラ出身のジョン・スカリーとソリが合わなくなり、重役会にはかった結果、自分が創業したアップルから追い出されました。
そしてNeXTを創業しますが、これは成功しませんでした。
また映画、『スターウォーズ』シリーズを制作したジョージ・ルーカス監督のインダストリアル・ライト&マジック(=現在のルーカスフィルム)からコンピュータ・グラフィックス部門を買収し、ピクサーと命名し、コンピュータ・グラフィックス専用のハードウェアを発売しますが、これもぜんぜん売れませんでした。
売れないグラフィックス・コンピュータの処置に困ったピクサーの社員が何とか食いつなぐためにCMの映像制作の下請けをしたのが映画製作会社としてのピクサーの始まりだったわけです。
スティーブが僕の勤めていたサンフランシスコの投資銀行、ハンブレクト&クイスト(H&Q)によく遊びに来たのはそんな当時です。
「よお、ビルの親爺、居るか?」と突然、やってきてH&Qの創業者であり会長であるビル・ハンブレクトと歓談してゆきました。
ビル・ハンブレクトはアップルが1980年にIPOしたときのアドバイザーであり、H&Qはモルガン・スタンレーと並んでこのディールの主幹事を務めました。
墓石広告ではモルガン・スタンレーが左側(上位)に位置していますが、これは会社の規模がモルガン・スタンレーの方が大きかったからで、もともとスティーブ・ジョブズに上場会社になるときの細かいアドバイスを与えていたのはビル・ハンブレクトでした。
スティーブの意向で「バルジ・ブラケット(大手の意味)証券を噛ませたい」と言われた時、ビルが旧友でモルガン・スタンレーのCEOを務めていたディック・フィッシャーに電話したのです。
そんな事からスティーブはビルのことを父親のように慕っていました。
「ちょっと近所まできたからさ」
そう言ってスティーブが会社に寄るといつもH&Qの社員はスティーブを暖かく迎えました。
でも(本当はスティーブは行き場所が無いんだな)という事はH&Qの社員は皆、ひしひしと感じていました。
つまりNeXTでもピクサーでも仕事が行き詰っており、両社とも「硫黄島玉砕」みたいなギリギリの状態でしたので、心を開いていろいろ相談したり、長期的なハイテク業界の未来について心おきなく語ったりすることが出来る環境ではとてもなかったのです。
スティーブが来ると「じゃ、折角だからサンドイッチを買って、ブラウンバッグ・ランチにしよう」という事で株式営業部員は全員トレーディング・デスクを離れ、会議室でスティーブを囲みました。
僕の仕事はスティーブのサンドイッチを会社の斜向かいにあるサンドイッチ屋、「スペシャルティーズ」から買ってくることです。
「スティーブ、サンドイッチは何にしますか?ターキーですか、ハムですか?」
「パンはホール・ウィートですか、ホワイト・ブレッドですか?」
僕がスティーブ・ジョブズと最初に口を利いたのは、そんなやりとりでした。
スティーブを囲んだブラウンバッグ・ランチはいつも無礼講みたいな感じで活発なテクノロジー談義になり、スティーブのビジョン、さらに彼の美意識を知る上で大変貴重な経験になりました。
ピクサーに関しては「映画作りでいちばん大切なのは心にグッとくるストーリーだ。映像が美しいことも大事だけど、コンピュータが可能にする特撮の技巧の虜になってはいけない」という事を強く主張していたのが記憶に残っています。
PCに関しては当時はウインテルの黄金時代でしたので「およそPCで最も付加価値がある部分はマイクロプロセッサーとOSであり、これはインテルとマイクロソフトがおさえている。だからそれらを内製するのは自殺行為だ」という事が世間の常識になっていました。
アップルはその後、NeXTを買い、スティーブは暫定CEOというカタチで1997年からアップルに戻ります。その時のアップルはどんどんキャッシュを燃焼していて、「あと何カ月持つかしら?」という状態だったと記憶しています。
「こんなに財務的リソースがカツカツになっているのに、OSからコア・プロセッサーまで全て自前で開発するメリットはどこにあるのですか?」
僕はそういう質問をスティーブにしました。
スティーブの答えは:
「いまはパーソナル・コンピュータには個性は無いけれど、これはちょうどフォードがモデルTを出した頃の状況と同じさ。つまりクルマに個性が無くても、ただ庶民に手が届くというだけで十分だったのだ。でもそういう時代はすぐに終わる。」
というものでした。そして:
「次に来るのはね、個性の時代なんだよ。例えばクルマで言えばポルシェとかそういうイメージだ。ポルシェがGMと同じエンジンを搭載していたら、誰も買わないだろう?」
「つまり消費者が思い入れを持ってくれるような狂おしいほど魅力ある、個性的なコンピュータをデザインしようと思えば、全てをコントロールする必要が当然あるのだ!」
その後、アップルは5色のボディカラーをもつiMacを出し、業績を急角度に回復してゆきます。
ある日のミーティングで「そろそろスティーブも暫定CEOというタイトルを単なるCEOにした方がいいんじゃないの?」という声がH&Qの社員の間から上がりました。
でもその時にスティーブは「いや、これはまだ暫定のままでいいんだ」と強く否定しました。
結局、誰からも文句を言わせないだけ十分に実績が出来るまで、スティーブは3年近くも暫定CEOというタイトルを使いました。
その意地になった様子はまるで親と喧嘩して、すねた高校生のように感情が剥き出しでした。
その時、我々H&Qの社員はスティーブがアップルを追い出された時、彼が心に負った傷がどんなに深かったかを思い知ったのです。
どんなに逆境でもプライドを失わず、自分のビジョンを曲げなかったスティーブ・ジョブズですが、ビル・ハンブレクトは自分の投資銀行家としてのキャリアを回顧して次のように語っています。
アップルはその後、NeXTを買い、スティーブは暫定CEOというカタチで1997年からアップルに戻ります。その時のアップルはどんどんキャッシュを燃焼していて、「あと何カ月持つかしら?」という状態だったと記憶しています。
「こんなに財務的リソースがカツカツになっているのに、OSからコア・プロセッサーまで全て自前で開発するメリットはどこにあるのですか?」
僕はそういう質問をスティーブにしました。
スティーブの答えは:
「いまはパーソナル・コンピュータには個性は無いけれど、これはちょうどフォードがモデルTを出した頃の状況と同じさ。つまりクルマに個性が無くても、ただ庶民に手が届くというだけで十分だったのだ。でもそういう時代はすぐに終わる。」
というものでした。そして:
「次に来るのはね、個性の時代なんだよ。例えばクルマで言えばポルシェとかそういうイメージだ。ポルシェがGMと同じエンジンを搭載していたら、誰も買わないだろう?」
「つまり消費者が思い入れを持ってくれるような狂おしいほど魅力ある、個性的なコンピュータをデザインしようと思えば、全てをコントロールする必要が当然あるのだ!」
その後、アップルは5色のボディカラーをもつiMacを出し、業績を急角度に回復してゆきます。
ある日のミーティングで「そろそろスティーブも暫定CEOというタイトルを単なるCEOにした方がいいんじゃないの?」という声がH&Qの社員の間から上がりました。
でもその時にスティーブは「いや、これはまだ暫定のままでいいんだ」と強く否定しました。
結局、誰からも文句を言わせないだけ十分に実績が出来るまで、スティーブは3年近くも暫定CEOというタイトルを使いました。
その意地になった様子はまるで親と喧嘩して、すねた高校生のように感情が剥き出しでした。
その時、我々H&Qの社員はスティーブがアップルを追い出された時、彼が心に負った傷がどんなに深かったかを思い知ったのです。
どんなに逆境でもプライドを失わず、自分のビジョンを曲げなかったスティーブ・ジョブズですが、ビル・ハンブレクトは自分の投資銀行家としてのキャリアを回顧して次のように語っています。
Quality deals are not measured in size, and only over the long term. Therefore, let us be aggressive in betting on people.どんなに素晴らしいIPOを手掛けたかは調達金額の大きさでは測れない。そして長い年月を経て初めてそれが良いディールだったかどうか判明する。だから僕たちは経営者の「人物」にアグレッシブに賭けよう。